Scribble at 2024-09-21 09:36:31 Last modified: 2024-09-21 19:06:40

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今も「異業種交流会」に行きまくっている人の盲点

こんな、流行が始まった頃から即座に指摘されていたようなことを、アクセンチュアの出身者というのは、いまごろ大発見の「盲点」であるかのように自己宣伝するのか・・・さすがは口先だけで富士通や IBM を動かして血税を無駄遣いしているだけのことはあるな・・・と思ったが、さすがに東大の学部くらいは出てアクセンチュアに入ってるんだろうから、こんなことが既に当たり前の指摘であることくらいは自覚があるようだ。まったくの馬鹿でなくて良かったよ。でも、だからこそ彼らには炎上案件で血税を盛大に無駄遣いしてきた責任というものがあるのだ。こういう人たちって、官僚と同じでどれほど巨額の失策を引き起こそうと、コソコソとわからないうちに別の会社の重役とかになって莫大な退職金とかもらって世田谷だの軽井沢だので悠々自適の老後とか過ごしてたり、あるいはいつの間にかクズみたいな大学の教授になってたりして、技術系の出版社から御大層な理屈の本を出してたりするわけだから、なんなんだろうなぁと思うよ。

よく考えてもみれば、僕らが日本史や世界史で学ぶ歴史的な出来事にしても、実際には似たようなことが起きていたんだろう。トップの藤原道長だの織田信長だのという人物の記録だけが残るから詳細は分からないにしても、恐らく夥しい数の公家や下級官僚や使用人たちの出鱈目な行動で、多くの人々が何千年も前から多くの国々で迷惑を被ってきたのだろう。もちろん、これが避けられたことだとは簡単に思えないにしても、やはり社会科学的に正確な議論を目指すのであれば、こういうイメージこそが現実のわれわれの歴史というものだと自覚することが大切だと思う。片手に iPhone を握っていようと棍棒を握っていようと、しょせんは凡人の集団に誠実で正確で正当な集団活動が何千年にも渡ってやれるわけがないのだ。

著者が指摘するように、異業種交流会というのは単なる典型にすぎず、他にも同じようなものとして、SNS でのやりとりだとか、かなり散発的・偶発的だが新橋の飲み屋で電通マンと保土谷化学工業の社員が会話するようなシーンも含めてよいし、世田谷の読書クラブでアクセンチュアの平社員(ですら世田谷に一戸建てを買えるらしい)と住友ベークライトの部長(ここは、気の毒に部長くらいでないと世田谷に一戸建てを買えないらしい)が出会うとか・・・まぁ、色々な意味の皮肉だらけで事例を紹介しても不愉快なだけだが、ともかくそういうパターンが幾つもある。ともかく、こういうことが何の役にも立たないという著者の指摘は正しいし、もちろん何十年も前から言われているし、世界中でこういうことを続けながら何の実績も上げていない大量の無能どもが明白な証拠となっている。したがって、こういうことを夢見て Facebook でせっせと今日の食事会はどうとか、しょーもない投稿を続けている人々は、簡単に言えば Meta 社の生体データ生成システムでしかないわけで、かつての Facebook 社員が何年も前に社内文書で書いていたように、ユーザはベンチャー企業のビジネス・メソッドの部品なのである。

話題は少し違うが、上の記事の著者は他にも「リスキリング」や「英会話」や「MBA」などの勉強も、たいていは無駄であると主張しており、僕はこれも昔から言われていることだと思う。リスキリングを唱導しているスティグリッツの『ラーニング・ソサエティ』とか、日本でも知識なんとか社会とか妙な理屈を言ってる経営学者がいるようだが、彼らが何を想定しているのかは分からないが、まず第一に言えることとして、われわれ凡人はたいてい学ぶ必要などなく生きていけるし、生活できる。まさしく、それこそが「凡人の人生」だからだ。アリは、地面に落ちた果物を巣へ運ぶために、もっと効率的な方法はないものかと物理学を学んだりはしない。しないからこそ非効率だが、非効率だから何だというのか。非効率で生きようと死のうと、そんなことは別にそれ自体で善悪を語れるものではないのである。それと同じで、人類というのは専門にしていたり才能があることについては凡人を上回る人々がいるのは確かだが、特に多くの人々から抜きん出た能力や実績があるわけでもないという意味での「凡人」が人類の 99.999% を超えて、色々なところで生活していると言っても良い。でも、その実情が全体として非効率であり「悪」であると言ってみたところで、社会科学者や官僚に何ができるというのか。これまで数千年に渡る人類の歴史を思い返してみるに、たとえ奴隷のように強制的に何かをさせたとしても、凡人の集団にできることは限られている。それがたとえ、ホロコーストや戦争のようなことであったとしても、それが人類の社会や制度を変えたのかといえば、決してそんなことはない。

たとえば、最後の世界大戦が終わって国連ができたと言っても、国連がいったい何をしたというのか。いまだに公式文書を(莫大な供託金を払っている国の言語として)日本語やドイツ語で発行しようとしない「第二次大戦史観」に拘泥する差別者集団に、世界平和はおろか人権の正当な保護などできるわけがない。なので、僕は国連関係の団体が主催する「哲学イベント」を、神戸大学の博士課程に在籍していた頃から科学哲学者として無視し続けている。哲学者として、あんな官僚どものイベントなどウェブサイトへアクセスするだけでも恥というものである。

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