Scribble at 2024-01-20 11:45:15 Last modified: 2024-01-20 11:53:55
ここでは何度も言及している話題だが、日本の出版社が好む「通俗化」という基準あるいは目標が、どうしてこれほど長い間にわたって殆ど疑問の余地なく採用されたり、後から入社する人々によって疑問の余地なく継承されたり、場合によっては退職した人物や若手の人々が回顧録やブログ記事などで正当化すらしているのか。本来なら社会学やマスコミュニケーション論を専攻する人々だけでなく、哲学や心理学に関わる者であっても問うて良いテーマなのだが、主に出版物によってしか業績を判断できない現状では、出版業界のそうした状況を疑問視したり批判することは難しいのであろう。よって、何度も言うが出版業界などとは無縁である筈の(そして、利害関係に縛られないことに意味があると思うなら、寧ろ「であるべき」とすら言える)僕らアマチュアが率先して批評するのが望ましい。
これは、考えてみれば簡単な理屈である。なぜなら、「通俗化は民主化である」というリベラルあるいは左翼的な脈絡で捉えれば辻褄が合うからだ。そして、日本の出版業界にこうした(僕に言わせれば間違った)思考を蔓延させたのは、恐らく戦後になって逆の極端として普及したプラグマティズムなり民主主義なりマルクス主義という(これまたそれぞれに劣化したすがたでの)イデオロギーを奉じる、たいていは戦前の復古主義者や伝統主義者と同じく迂闊な人々だったのであろう。そして、学生運動の時代に大量の生徒が無試験で簡単に大学へ入り、それから無能が簡単に大学教員として採用されることによって、ほぼ全ての学科で研究あるいは教育の質が劇的に低下したと思われる。
そして、こうした人々の書くものを売り捌くのが仕事であった出版業界でも、要するに「民主化」という内容の殆ど正確に理解されてもいない観念や妄想を旗印にして、「通俗化こそ民主化である」という誤解が広がったのであろう。いわく、専門用語を使うこと、論旨が難解であること、長文であること、図やイラストがないことは、それを読んで理解するために時間やお金が使えるブルジョアだけに許された贅沢である、あるいは新左翼やフランス思想が好きな人たちの言い方を使うなら、それらの難解さや長大さは一個の暴力装置であーるというわけだ。
かようにして、そもそも理解するとはどういうことなのかを殆ど無視した議論が、出版業界でも、教育行政や教育機関でも横行することによって、言ってしまえば自分たちの無思慮や無教養あるいは無頓着を自己正当化する予定調和的で所与のような前提として、自らの思考なり仕事の乱雑さや稚拙さや未熟さそのものを裏書きするための仕掛けとして「通俗化は民主化なり」というフレーズが出版・マスコミ業界の人々に刷り込まれていったという可能性はあろう。もちろん、これは恐らく無自覚な推移であったろうから、彼らに「責任」というものはない。バカや無能に責任能力はないんだよ。よって、彼らを責めても意味がないからこそ、こうして批評はするものの、具体的に◯◯社のこいつがどうとか◯◯書店のこいつがどうと非難したりあげつらってもしょうがないのだ。責任能力がない民主化ロボットを、僕は非難するつもりはない。したがって、こういうロボットがどういうわけか増えてしまった思想なり市場の要求なりという原因を叩くか、あるいは彼らが喜んで使っている道具を「それは、実は関市の技術者が鍛えた剃刀なんかじゃなくて、中国のバイトが作った剃刀形状のカッターだよ」と教えてやる必要があるのだ。ああ、学卒であろうと東大とか出てる岩波を始めとする都内の出版業界のお歴々に「教えてやる」なんて無礼なセリフは言うまい。しがないアマチュアがご提案申し上げると言った方がよいかな。
「通俗化は民主化なり」、あるいは欧米でも「通俗化は啓蒙なり」という錯覚で出版したり発言する人々がいなくならないため、無知無教養な人々にとって都合がいい、ものごとの短絡化や(短絡的な)図像化が編集テクニックの一種として普及し、継承され、やがては「論文の書き方」などと出版業界人が学術研究者に教えるような出版物まで出てくることになる。これは、口語の日本語を劣化させてきた主犯の一人である NHK が日本語の発音や表記について辞書を出版しているのと同じような、夜郎自大というべき事態と言ってよかろう。もちろん、僕は権威主義者なので、かような状況があるからといって「在野」だの「素人」だのに権威を据えるような倒錯は決して認めない。ものごとを論ずる人がどういう身分をもっていたり、どういう産業分野とか組織に所属しているかによって決まるようなことではないからだ。そういう悪い意味の権威主義もまた、個々の力量や成果を評価することなくイージーに物事を判断したり評価する通俗化の餌食になった末の臆見でしかない。