2018年03月02日に初出の投稿

Last modified: 2018-03-03

鴻巣さんの『鹿持雅澄と万葉学』が、ずっとヤフオクで出品されている。要するに誰も落札しないから自動処理で何度も出品されているのだろう。4,000円くらいで即決ということだが、さてどうしたものだろうか。もちろん、鹿持雅澄の事跡を学んでいる人であれば、小関さんの『鹿持雅澄研究』の方を先に求めたいところだろうけれど、鴻巣さんの『鹿持雅澄と万葉学』は詳細な内容が分からないので、場合によっては、いまでも十分に読むべき価値があるのだろうと思う。たとえば、鹿持雅澄自身に関する論説と、彼の万葉集研究についての論説とが、どれくらいの割合になっているかによって判断できるかもしれない。それに、後から書かれたものが正しいという保証はないのだし、鹿持雅澄が調べた家系についても、その正統性を疑う鴻巣さんの議論を直に確かめなければいけない。

ただ、いずれにしても鴻巣さんの本であれ小関さんの本であれ、鹿持雅澄の国学とか学問についての考え方という点について、まだまだ掘り下げるべき点が残されているように見受ける。そもそも鹿持雅澄の著書は既に古書でしか手に入らないので、早い話が古文書学の素養がある人しか彼の業績にアクセスできないため、なかなか研究者が増えず、彼に関する研究成果の大半が言語学と万葉学になってしまっているのは残念と言うべきだ。

ちなみに僕が雅澄や本居宣長の国学を真面目に扱うべきだと思うのは、雅澄らが「からごころ」を否定するのは、出来合いの概念的な枠組みを持ち込むだけでは駄目だという話だと思うからだ。それはちょうど、現代の我々が経験している色々な事案について、単純に古典ギリシアの政治思想やフランスの啓蒙思想という観点から何事かを言ったところで解決するわけではないということと同じなのだ。もちろん他方で、日本の精神性が他の国のそれよりも尊いとか高尚であるとか優れているなどというタワゴトに耳を傾ける必要など無いが、彼らが単純な外側からの解釈や批評に抵抗する心持は理解できる。そして、抵抗しながら自分たちが古来からの伝統なるものに由来を求める独特の精神性に依拠すればよいのかどうか、というところまで追っていかないといけないのだろう。

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