Scribble at 2022-07-22 09:56:38 Last modified: 2022-07-22 13:49:12

大雑把になるが、学部の講義や演習では「現代英米哲学」などと称して分析哲学と科学哲学をまぜこぜにして扱っているプロパーも多い。そもそも僕が所属している日本科学哲学会ですら、どこかで読んだ記憶では、投稿される論文の多くが「分析哲学」の論説だと思われるにもかかわらず、特に分け隔てなく採用しているという。

僕が見た限りでは、「科学哲学」の枠から食み出ているという傾向は、国内で "philosophy of science" という表現を使っている科学基礎論学会の機関誌に掲載される論説を見ていても言えるのだが、基礎論学会の方は学会が生まれた経緯から言って、まだ「科学哲学」に分類される論説の方が多いようには見受ける。ただし、その経緯ゆえなのか、渡辺慧氏や柳瀬睦男氏が手掛けるような〈自然科学者の議論する哲学〉という印象を受ける論説も多い(そして、日本科学哲学会でも似たようなアプローチの研究会にコミットしはじめているため、はっきり言わせてもらえば何年後かに双方の学会で合併すればどうかとすら思う)。結局、どちらの学会であれ厳格に科学哲学という自意識(学術研究の名称とか理念が、いったい自意識以外の何であろうか)を自ら規定したり維持しているわけではなく、分析哲学という近接したアプローチに〈食み出ている〉か、あるいは自然科学者の哲学という近接したアプローチに〈食み出ている〉ように思えるのが実情だろう。

そういう次第なので、冒頭で紹介した事例とは別に自然科学者の哲学といったアプローチを「科学の哲学」というタイトルで講じている方もいる。中には、全く分析哲学や科学哲学の素養をもっていない解釈学とか現象学のプロパーが「科学と技術の哲学」というテーマで講義をもつこともあるため(僕の学部時代の恩師はメルロ=ポンティなどフランス思想の研究者だが、教養課程でこういう講義をされていた)、特に哲学の色々な学派なりアプローチなりに詳しくない学生や初心者にとっては複雑な印象をもつかもしれない。

その中で、特に分析哲学と科学哲学は厳格に区別して扱われないことが多く、僕も修士の頃はとりわけ現象学を専攻する人々から「分析系の人たち」と呼ばれることが多かった。そういうレイブル(「ラベル」は片仮名の日本語であり英語話者には通じない)を貼り付けることに熱心な人々のことはさほど問題ではないが、自分のやっていることや志すことが曖昧では困るという人もいよう。そこで、自分が分析哲学に関心をもっているのか、それとも科学哲学に興味があるのかを見分ける簡単な方法を教える。

Mind: https://academic.oup.com/mind

Philosophy of Science: https://www.cambridge.org/core/journals/philosophy-of-science

上記は、分析哲学と科学哲学の代表的なジャーナルである。バックナンバーに掲載されている論説を50年分ほどじっくりと眺めていって、興味がある論説の数が多い方を選べばよい。もちろん、僕は PS の方が興味深い論説が多い。ただし、Mind に掲載される論説に価値がないと言っているわけではなく、なんであれ哲学に関わる論説であるからには無関係である筈がなく、したがって Mind には重要な論説も数多く掲載されている。科学哲学を専攻するからといって Mind に掲載される論説を軽視してよいなどというのは、それこそ悪い意味の「アカデミズム」というものだ。そういう子供じみた党派性こそが、無能の証明である。

それはそうと、Philosophy of Science の発行がシカゴ大学出版局からケムブリッヂ大学出版局へ移行している。これは、僕としては好ましい傾向だ。なぜなら、シカゴ大学出版局というのは、他の出版物についてもオープン・アクセスについて非常に後ろ向きで反動的とすら言える出版元だと思ってきたからである。もういまでは逆に珍しくなった、「何年前かの1冊分だけサンプルで見せる」という体裁に長らく固執して、オープン・アクセスの論文をぜんぜん扱ってこなかった。ケムブリッヂ大学出版局の方が、オープン・アクセスについての対応はできていると思う。

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