2018年02月24日に初出の投稿

Last modified: 2018-02-24

アマゾンでは、既に何年も前から「セドラー」と呼ばれていて実店舗を持たないブローカー業者が古書を販売していて、昔ながらの古書販売業者と肩を並べている。いまのところ、僕はどちらで古本を買っているのか区別はしていないし、どこの商品も驚くほど悪質なものはなく、せいぜい海外の事業者から到着までに意外と日数がかかったというていどの印象しかない。平均して、昔からの古本屋さんだろうとセドラーだろうと、数百円の本でも丁寧に包装して送ってもらっており、逆に、恐縮はしないまでも過剰包装ではないかとすら思うことがある。それだけ些細なことでもクレームをつけて店の reputation score を落とす人間がいるということだろうか。しかし、そもそも古本で手に入れている時点で、本来は著者や出版社に入るはずの正当な対価を払っていないのだし、少しは遠慮してもいいだろうとは思う。古本をよく買っている人間がこんなことを言うのも憚られるが、建前としては最初に買って読んだ人物と古本で買って読んだ人物が、物質としての本をどちらが持っていようと、「コンテンツ」を利用した対価について、それぞれが著者や出版社や取次業者などに支払うべきではあろう。

それにしても、興味があって調べた本の古本が販売されている光景を見ると、古典的な著作でもそれなりに多くの本が出回っていることが分かる。さきほどもシュナイアーの Applied Cryptography: Protocols, Algorithms, and Source Code in C という本を見たが、原著の古本は 2,000 円弱で何冊も出品されている。そして、それらがたとえ 2,000 円ほどで手に入るという(読みたい人間からすれば幸運としか思えない)状況にあっても、飛ぶように売れている気配もない。そして、驚くことにアマゾン JP のページは少なくとも頻繁に利用している日本人や日本在住の外国人が誰でもいつでもアクセスできるのだから、この値段で販売されていることを知っていながら買っていない人もたくさんいるということである。ことあるたびにケチをつけているようで気の毒だが、情報セキュリティ大学院大学の学生などは、入学する前だろうと入学した後だろうと、この手の古典的な著作は勉強がてらに原書でも手に入れようとは思わないのだろうか。毎年、前期と後期を合わせて50名近くが入学しているとは限らないと思うが、この手の古典的な本を翻訳だけで済ませているような英語力の人材が情報セキュリティの専門家を目指すのもおかしな話であろう。

だが他の本についても、たとえば科学哲学でも似たようなことは言える。すぐに読めるかどうか、読んで理解できるかどうかはともかくとして、(とりわけ安く)手に入るうちに手元に置いておくというのは、電子書籍がなければなおさら切実な問題にもなる。なぜなら、電子書籍に「古本」は存在しないので、書籍としての古本が手に入らなければ出版社とアマゾンの決めた値段でしか本が手に入らなくなるからだ。哲学の書籍に限らず、専門書というものは発行部数が少なければ値段が高くなるのは仕方の無いことであり、カンファレンスの proceedings(会議録)などは、安くてもおおよそ1冊3万円くらいするものだ(遊興費として僕が一ヶ月で費やせる書籍代を遥かに越えている)。もちろん電子書籍すらない昔の著作については、読めないくらいなら定価でも買うのは当たり前だが、そんなことを「当たり前」として続けられるのは資産家の子息だけである。(いまどき大学教員ですら、そんな金の使い方では科研費など交付されまい。)

ということで、定価の半分以下、あるいは新書や文庫本に至っては 100 円という値段で販売されている書籍に、検索すれば簡単に見つかる古典的な業績が見つかると、多くの人が買わないで放置するほど、みんな既に所有しているのか、あるいは放置されるほど古典的な著作であっても売れないかのどちらかを想像するしかなく、やはり学生や一般人が基礎の勉強として古典的な著作を買うのは難しくなってきているのだろうと思う。大学の教養課程の講座でも、僕が学部生だった頃からですら、テキストを指定しないで教員が自作したプリント教材を授業で配ったり、あるいは印刷所で自費出版してもらったような簡素な体裁のテキストを格安で販売するという状況が当たり前のようになっていたわけで、仮に専門課程や修士課程で専門の学科や分野を決めた段階でも、そして大学を出た後で就職しても、古典的な著作をあれこれと集めるのは(就職してからでも勉強を続ける気がある人に限ってのことだが)経済的にも難しくなってきているのだと思う。

正直、なんでこんな古典的な著作が古本でこれだけの格安なのに売れ残っているのかと、やや唖然とさせられることもある。しかし、それぞれの学術分野に進む専門の学生は、やはり学術分野だけあって人数が少ないのだろう。これだけクリティカル・シンキングだ、哲学カフェだ、なんとかフェアだと言われていようと、分析哲学や科学哲学を専攻する専門学科の学生なんて実際のところ全国の大学で 100 人もいればいい方なのだろう。修士の学生になると、その半分以下といったところだろうと思う。なので、やはり研究の趣旨や研究内容を誤解されないようにするとか、関心のある学生に専攻するべきかどうかを決めてもらうためのチャンスを提供するとか、そういった主旨で科学哲学の概観や基礎的な解説を普及させたいとは思う。ちなみに、この「基礎的」という言い方は、実は竹尾先生から引き継いで使っている。僕はずっと「初等レベルの」という言い方を使ってきたのだが、「初等レベル」と書くと少しバカにしたニュアンスがあると先輩に指摘されたので、竹尾先生がよく使う「基礎的」という表現をいただいた次第だ。もちろん、この「基礎的」というのは、簡単で平易な初心者向けの上げ膳据え膳の説明などではない。専門の研究なり厳密な考察にあたっての必要条件と考えられる背景知識のようなものを指しているので、通俗化によって習得できるとは限らない(そして、結局のところ学問というものは、通俗化では通俗的なレベルまでしか分からないものなのだ)。

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