Scribble at 2023-10-15 11:32:51 Last modified: 2023-10-15 15:45:58

添付画像

阿部珠理『アメリカ先住民の精神世界』(NHKブックス、1994)

ネイティヴ・アメリカンには多くの部族があって、その中でも大きな部族の一つであるラコタに関わる習俗や実地経験を伝える本だ。もちろん、これで「インディアン」が分かるわけでもないし、それどころかラコタについてすら現地での雑感や観察としては、かなり整理され、また簡単に描かれているところも多くあろうと思う。しかし、当時の(そして恐らくは現在の) reservation で暮らす人々の生活を知るには、よい参考になると思う。ちなみに、著者の阿部珠理氏は本書を書いたときは助教授だったが、日本でネイティヴ・アメリカンの研究では第一人者との評価を得ていたが、60代で既に亡くなっているという。本書の後にも何冊かの著書や編著を出しているようなので、再び図書館に通う機会があれば一読してみたい。

ただし、NHKブックスという通俗的なシリーズの一冊として本書にも言えることだが、僕はネイティヴ・アメリカンやオーストラリアのアボリジニやアフリカの色々な部族などの風習とか宗教儀式を、そう簡単にエコロジーとかロハス的なインチキ思想に結びつけるようなマスコミ的というか左翼的なスケベ根性はもっていない。あくまでも保守の人間として、色々な国や地域や民族にある、いわばヒトとしての(僕は「人間」という観念は相当に怪しいものだと思うので、ポモになど言われなくても歴史的な捏造として忌避したい。こういう脈絡では文化人類学や生物学的な基準を示唆する「ヒト」という表記を採用している)考え方や生き方を学ぶ参考にしたいという動機しかもっていない。よって、別にこうした人々の考え方や暮らしや価値観への憧憬を煽るような解釈とか説明とかトピックの選び方には同意しない。

僕らは、既に忘れたり否定すべくもない文明社会に生まれて生きているのであって、これを出発点にしてものを考えたり、ロハスだろうとミニマリズムだろうと生活方針を決めていかなくてはならない。こういうことを真面目に据えて考えたのが、「実存主義」と呼ばれている思潮にあった人々であり、改めてこういう話題に即しても彼らの成果に学ぶところはあろう。よく、哲学のスタンスとか学派みたいなものが排他的であるかのように考える素人がいて(いや、プロパーにもいるのだが)、僕らのような科学哲学の研究者は実存主義とか解釈学とか中世哲学とかを無視したり否定していると思っていたりする。敢えて言えば、掴みかかって殴り倒さんばかりの、まるでハマスとイスラエルみたいなものだと錯覚しているようなのだが、それは結局のところ哲学というコンセプトなりスタンスを理解していない明白な証拠だと思う。よって、プロパーにもよくいるのだが(残念ながら僕の指導教官にもそういう人が少なくない)、いわゆる分析哲学の人々は現象学や解釈学を非科学的なお喋りだと罵り、逆に現象学や解釈学の人々は分析哲学を軽薄なサラリーマン思想だと罵る。それからプラトンやニーチェなどの思想を研究している人々は、それらを総じて無視して古典の咀嚼に勤しむことで、マウンティングを哲学的な超然だと錯覚したりする。結局、無能というのはそういう自意識を動機にしてしか哲学する理由の無い連中であって、そもそも哲学なんてする必要がなかったのに、不幸にも何らかの事情があって哲学に関わって東大教授とかになってしまった人々にすぎない。だが、英語や数学はできたので、それなりに人並み以上の成果は出せるため、外形的には哲学に関わって何事かを為している人々に見えるだけだ。でも、哲学というのは、そういうことに幻惑されるような人間の携わる営為ではない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook