Scribble at 2022-09-01 12:23:58 Last modified: 2022-09-01 12:40:19

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Saying goodbye to my parents’ library (wsj.com)

僕の実母は2018年に亡くなったのだが、残していったものと言えば、実家に飾ってある絵くらいだ。それも亡くなる数年前に通っていた絵画教室で描いた作品だから、別に何十年の年季が入った品物でもない。正直なところ、たいていの平凡な家庭に暮らして生きている人々なんて、処分したこと自体をブログであれこれと語るようなものは持ち合わせていないと思う。せいぜい形見として兄弟に配る宝飾品とか時計とか万年筆くらいであって、テレビ・ドラマの設定になるような財産なんてないよ。そういうのも、上場企業のサラリーマンを基準に国民の暮らしや人生を描いたり考えている、NHK や国家官僚の偏見と同じだと思う。

僕は、ひとまず自宅と実家に相当な数の本がある。丁寧に調べたことなんてないが、恐らく5,000冊くらいはあるし、その半分以上が洋書だ。僕が死んだら処分は色々とやりようがあるけれど、古書店で洋書を引き取るところはないんじゃないか。科学哲学の専門書なんて、なかなか買う人はいまい。もちろんだが、僕は自分が死んだあとで蔵書がどうなろうと知ったことではなく、引き取るのが連れ合いだろうと誰だろうと好きにしてもらって構わない。30代の頃は後学のために、どこかの大学図書館へ寄贈してもらうのがいいと思っていたけれど、ご承知のように大学図書館や公共図書館なんて、いまや書籍の価値がわかる人間の方が少なくなってしまった。どこも実質的に「ツタヤ図書館」と同じくバイトが運営している、無料のレンタル・ショップと化している。また、書物を維持するということにも価値を見出せない人々が天下りとして決裁権すら握っているため、学術的な価値があろうと無かろうと書庫に入りきれない書籍は、即座に除籍されてしまう。そして、古書店に払い下げるならともかく、でたらめなスケジュールで近隣住民に分け与えたり(実際にはオンラインで商売してる連中が群がってくるだけらしい)、それどころか高知大学の図書館は郷土資料を焼却処分にしているありさまだ。あれだけ郷土の調査や研究を熱心にやっている高知県ですら、そんなことを図書館がやってしまう。これでは図書館なんて信用しきれない。

それに、後学のためと書いたが、後学に何らかの伝えるべきものを残すのであれば、やはり僕自身が書いた文章を残すのが筋だろうと思う。もちろん、若い人々に継承してもらえる、何か学術的に重要な成果を僕が打ち立てているなどと言いたいわけではない。でも、書籍であれば何とかして同じものを手に入れる方法はあるし、それを読みたいならどうにかして手に入れる努力を若い人々に期待してもいいだろうと思う(それが海賊版サイトから PDF をダウンロードするようなことまでを含むかどうかは、敢えて言わない)。

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