Scribble at 2026-06-03 11:02:38 Last modified: 2026-06-03 11:05:22
武士の情けでリンクするのはやめておいてやるけど、こういうことで喜んでる場末の「自称デザイナー」ってたくさんいるんだよね。で、生成 AI を使うだけで生産性が上がったと錯覚して、僕らのような上流工程の事業者にせっせと「仕事ください」と問い合わせフォームからメッセージを送ってきたり、Canva で作ったウンコみたいなポートフォリオを投げつけてくるわけだ。でも、悪いけどこういう人たちに電通や博報堂クラスの仕事なんて任せられないね。
こういう人たちは、簡単に言えば仕事がなくて暇だという事情もあって、こういう話題に飛びつくのは早い。でも、彼らの適応の早さの元は、技術や理論の深い理解に基づく「応用」ではなく、単にブラックボックス(以前は外部のエンジニアや WordPress の膨大な数のテンプレート、現在は生成 AI)に命じて成果を得るというプロセスに、いままでやっていたツールの使い方と同じような気軽さがあるというだけのことなのだ。
そして、こういう場末の連中が Codex のような玩具を面白いと歓迎している背景には、次のような認知の歪みがある。まず、自分の能力についての錯覚がある(ときどき "Dunning-Kruger effect" として語られるが、これは誤解をまねくので、最近は使われていない)。CSS をスクラッチで記述する基本的で体系的な知識がなかったり、HTML というシンタクスの土台になっている記号論理学の知識がないため、生成 AI が出力したコードの品質(セマンティックな妥当性、保守性、アクセシビリティなど)を正しく評価できない。まさしく、従来の三流デザイナーやインチキなコーダと同じく、見た目や動きという表面的な事実だけで自らの能力が拡張されたと誤認しているのだ。
第二に、非対称な危機感を指摘できる。上流工程から見れば代替可能な作業であっても、彼らにとっては面倒な実装工程をスキップして、手軽に成果物らしきものを作れる魔法のツールに見えているのだろう。でも、発注側が求めている要件定義の論理的整合性と、彼らが提供している表面的なビジュアルやコードの単なる出力(AI スロップに近いもの)とのあいだに乖離があることに気づいていない。気づくだけの経験や技術や見識がないからだ。
したがって、僕らがかような人々に「君たちのやっていることは、君たちがやっているていどの単純な仕事であればあるほど生成 AI で簡単に置き換えられる」と直接伝えても、感情的な反発を招くか、あるいは「自分は AI を使いこなす側だ」という論理破綻した再反論(低レイヤーなプロンプト・エンジニアリングへの固執)を生むだけになる。なので、彼らに現状を理解させて行動変容を促すのであれば、主観的な評価ではなく、市場原理と成果物の品質という客観的な指標を用いて論理を展開する必要があるだろう。
まず、彼らが喜んでいる「Codex(あるいは類似の生成 AI)を使ったデザイン」は、開発プロセスのコモディティ化であり、彼ら自身がそれを自ら喜んで進めている当事者だという自滅的な状況を自覚させる必要がある。いまどきウェブのデザイナーを名乗っておきながら JavaScript でスクラッチからデータ処理のロジックも組めない人間が生成 AI で出力したコードと、非エンジニアの発注者が生成 AI で直に出力したコードの差はゼロになる。まさに kintone のコマーシャルなどで「ノーコード!」と叫んでいるように、Windows のコントロール・パネルを開く手順すら知らない経理のオッサンが財務会計の事業評価アプリを作るようになるのだ。生成 AI のインターフェースが自然言語に近づくほど、仲介者としてのプロンプトを叩くだけのデザイナーやコーダの存在理由は消滅する。上流工程から見れば、彼らに外注費を払う理由はなく、社内のアシスタントや発注者自身が AI を操作すれば済む話になるし、実際に弊社でもそうなりつつある。
次に、セマンティック・ウェブの基礎や記号論理学的な破綻のない構造化は、ウェブサイトのアクセシビリティ、SEO、そしてシステムの堅牢性に直結する。だが、生成 AI が出力したコードに潜む論理的なバグだったり、セキュリティホール、あるいはセマンティックな誤り(文化的なバイアスに影響される)を、自らデバッグできない人間は、成果物に対する品質保証ができない。これは、もともと生成 AI があろうとなかろうと、その手のヘタレにわれわれが仕事を発注するわけがなかったのであって、生成 AI で少しは見栄えのする成果物を作れるようになったていどで僕らの評価が変わるわけではないのだ。したがって、生成 AI の出力を正しく評価するスキルがない人間の納品物は、プロフェッショナルとしての責任放棄の見本でしかない。上流工程であるわれわれが求めているのは「単に動くコード」や「良さげなビジュアル」ではなく、そのコードがなぜそのように設計され、ビジネス要件をどう満たしているかの論理的説明であり、特定のビジュアル要素を採用するに至った背景や条件などの筋道が通った説明だ。これができない人材は、成果物のバグのリスクも含めて、AI 自体と同等(あるいはそれ以下)の評価にしかならないのである。
そうなると、予算を握るトップ・クライアントや広告代理店や上流工程の制作プロダクションであるわれわれにとって、生成 AI を導入する目的は中途半端な外注の代替と内製化によるコスト・カットでしかない。「Codex を使って早く作れるようになりました」とアピールされても、発注側からすれば、「では、単価を10分の1に下げてください」とか、「もうあなたには頼みません。われわれが生成 AI を使えばいいだけです」という判断に直結する。これは、もちろん個人事業主や下流工程の制作会社にとって歓迎すべき事態ではなく、自らの首を絞めている状態だ。ツールで自分の仕事が楽になったと喜んでいる場合ではないのである。