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Russell’s theory of definite descriptions in the light of structural proof-theory

Springer のサイトでは MathJax がロードされていないか DOM への展開が壊れてるかの理由で、数式の表示が正しくないようだ。

さて、バートランド・ラッセルの「確定記述 (definite description)」の理論なんてのは、いまどき分析哲学の学生でも知らないような、古典的な業績ではあるけれど何の役に立つのか一見するだけでは分かりにくいパズルの一つだ。もちろん、こういう技巧が有効に働くという記号の操作が確立したからこそ、この後に展開するようなラムジー文のようなアイデアにも反映されたわけだし、またさらにラムジー文を応用したデイヴィッド・ルウィスの理論語句に関する有名な論文にも引き継がれたのだから、哲学的な(とは言っても、かなり限定的な意味での「哲学」だが)効用なり意義が不明であるとか疑わしいという評価には同意しかねる。そのていどには、僕も分析哲学者の末席にいた一人なのだ。正確には「科学哲学者として、末席というよりも観覧席にいた一人」と言うべきだが。

この論文は、ラッセルの展開した議論の主旨を維持したまま、現代的な証明論のスキームで定式化しなおすことを目的としている。しかも、三つの異なるスキームに定式化しており、それぞれ演繹として利用する場合にどう扱えるかも具体的に表していて、教育的な配慮もしている。つまりは、ラッセルの理論について分かりにくさを低減するという啓発的な目的から定式化をやりなおしたと思える、こう言っては語弊があるかもしれないが、実務的な動機にもつづく論説だと言ってもよいのだろう。もちろん、こう言ったからといって冷笑したり非難したいわけではないし、通俗的であると見下す意図もない。そもそも、このような水準の再定式化や教育的な配慮は妥当なことであって、表紙にスケベなイラストを描くような、日本とか呼ばれている辺境国家の出版社がやるような通俗化とは目的も動機も異なるものだ。そしてもちろん、それらの違いは海外と日本の差にあるわけではない。つまり、「格好いい外国の議論 vs. いまだに田舎者の日本の議論」といった差ではなく、有能な人々の成果と無能な連中の成果にある差だけだ。僕は日本のプロパーを「日本人」だから無能だと言っているわけではなく、彼らがロシアの大学に在籍していようと同じことをやっている限りは同じだと言っているにすぎない。

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