Scribble at 2023-12-23 08:01:11 Last modified: 2023-12-24 16:07:43

生成 AI の処理が従来の検索エンジンの処理とは違うという理由で、何か AI が無から有を生み出す魔法みたいに宣伝してる自称専門家とかがたくさんいるんだけど、そういう人々というのは理数系の学科を出ていても事の本質が分かっていない「計算坊や」たちなんだよね。悪く言えば生成 AI サービス業界の無償奉仕の(実質的な)セールスマンでしかない。よって、こういう連中の解説や議論に騙されてはいけない。技術や道具に依存するということは、それはとりもなおさず設計した人間や産業に(やや大袈裟に言えば)支配されるということでもある。もちろん凡庸に暮らして死にたい大半の人々はそれでいいかもしれないし、凡人として生きて死ぬ自由だってあるわけだけど、それはつまんないなと思うなら、そしてその「つまんなさ」を犯罪や自暴自棄なふるまいや享楽で浪費したくもないなら、やはり真面目に考えてみるチャンスを活用してもらいたい。それが、このところバカが盛んに宣伝してる「哲学」とやらなのかどうかは知らんし、そんな商品タグなんてどうでもいい。

生成 AI が回答する処理は、確かに従来の検索エンジンとは違って、キーワードの重みとか密度だけで計算しているわけではない。また、従来の検索エンジンが採用してきたセマンティクスとも異なる理論的な背景があるのは事実だ。でも、生成 AI のセールスマンどもが言うほどの「クリエーティビティ」なんてものは生成 AI にはないし、現状の拡散モデルをどこまで洗練させても同じことである。確かに、その洗練度はこれまでの AI に比べると高品質だし、コンピュータのスペックが上がっているおかげで、その成果を家庭のパソコンでも活用できるようになったことは、もちろん一つのエポックと言っていい。現実に僕らは仕事でもプライベートでも生成 AI を道具の一つとして利用し始めている段階にあって、それ自体は称賛するべきことだと思う。よって、僕は生成 AI の懐疑派や反対派ではない。敢えて言えば技術の発展や導入や規制について、ゼロサムあるいは是か否かの思考など無意味であるという常識的で穏健な立場だ。

ちなみに、「保守」と言えば懐疑派だろうと思うかもしれないが、何度も言っているように、僕は復古主義者でもなければ、人類史のスケールで言えば些末で、本質的でもないような「伝統」の擁護も意図していない。敢えて言えば、最近の流行語である「人新世」の一部と言ってもいいスケールの文化史という観点で何を重視するべきかという話をしているので、極端なことを言えば日本なんていう国が国家や民族や文化としてどうなろうとどうでもいいのだ(そして、みなさんの大多数も実はそうなのである。そういうメンタリティの極端な実例が、まさに隣の中国という巨大な国に現れている)。

もちろん、ここでは僕が言っている保守の話は大して関係がない。重要なのは、表面的に新しく見えても実質的には同じであるか僅かの違いでしかないという正確な理解をもって理論や技術を理解したり活用するための知見をもつということである。テクニカルな線型代数や確率論の知識が必要な場合も多いが、僕らはプロパーではないのだから、それらが必要だとしても、その目的は『情報処理』に論文を掲載して田舎の単科大学で田舎者にビッグデータを教えるためではなく、僕ら自身と僕らの生活や人生が技術や技術を軽薄に扱う連中に振り回されないためなのである。大半の人間は、世のため人のためではなく、自分自身や家族のためだけに学んだり、学問をやってもいいのだ。

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