Scribble at 2026-10-09 19:08:16 Last modified: 2026-10-09 20:59:51

添付画像

スーパーの裏でヤニ吸うふたり

異世界転生作品ばかり観ていて食傷気味だったので、たまにはこういうのも観ている。観始めた当初は中年男性の boy meets girl という印象で、おそらく女性からは「モテないオッサンの妄想」だと引かれるような展開なのかと思ったが、そういう単純な事情でもない経緯が描かれている。でもまぁ、ご都合主義と言ってしまえば終わってしまうので、そういう興覚めのコメントはやめておこう。

まず、僕は煙草をやめてから10年以上は経つのだが、何も「禁煙!」と意気込んで止めたわけでもないし、健康診断で肺に影が出ても困ると恐れて止めたわけでもない。単に、吸うというか買うのを止めただけなので、別にいまから吸っても構わない。ただ、10年以上も吸ってないから、いまさら手に入れても美味いかどうかは分からないし、そもそも止めたときの倍くらいの値段になっているので躊躇はするな。ちなみに、最後に吸っていたのは LARK のメンソールだ。で、この作品は喫煙者がメインとなっていて、もちろん煙草を吸っているシーンが多いから、それを理由に受け付けない人もいるだろうと思う。よほどの興味があれば嫌煙家でも漫画を読んだりアニメを観るかもしれないが、実際には喫煙者の話というだけで敬遠する人が多くいると思うので、レビューの大半が好意的な評価になっているという事実だけで作品の客観的な評価だと考えるのは、典型的な認知バイアスだ。

ただ、そういう点を除けば作品の構成や展開はよくできていると思う。異世界転生作品の幼稚さや粗雑さに比べたら、遥かに丁寧に人物設定やストーリーが作られている。そして、最も魅力的だと感じたのは、スケールの小さな話を過大評価せずに小さなスケールでちゃんと描いているところだ。簡単に言ってしまえば、田舎の大学を出てクズみたいな会社でこき使われている凡庸な中年と、高卒でスーパーのレジをやってるネーちゃんの、どこにでもありそうな歳の差カップルができあがるまでの話である。埼玉や東京や千葉の郊外なら、こんな話はいくらでも実話で転がっているだろう(もちろん、職業や場所や年齢には色々なバリエーションがある)。でも、最近のラノベや漫画はやたらと世界の重大な出来事がド田舎のここで起きているぞとばかりに過大評価してしまう。その極致が「セカイ系」であろう。僕はセカイ系は評価しないので、それは嫌だ。人がそれぞれ自分たちの心情とか生き方とか価値観を世界でいちばん大切にしているというのはいい。それはセカイ系でもなんでもない、人の自然な態度や気持ちだからだ。そして、そんなことが宇宙の破滅を防ぐなんて誰も考えてないし、そんなことを期待すらしないで、みんな細々と(という自覚すらなしに)生きて、死んでいく。それが人というものであり、僕はそれでいいと思うんだよね。別に世界を救う必要もないし、東大教授になる必要なんてないし、ベンチャーの社長になる必要もないし、坂道アイドルになる必要もないし、アメリカの大統領になる必要もない、そんなもんたいていの人にとってはどうでもいいことだ。そして、そういうごく普通の価値観や感情やスタンスを、この作品は或る意味で正確に(妙な言い方だが「社会思想的な脈絡で正確に」)描いていると思う。もちろん、僕はそういうリアリティが好きだ。われわれの大多数はミリオネアや映画俳優になったりはしないし、できもしない。だが、その代わりに大量殺人鬼にもなったりもしないし、できもしないのだ。そういう凡庸さや平凡を僕は愛しているけれど、しかし凡庸でも平凡でもないところがあってこそ、色々な技術や芸術が発展していくのだろう。それはそれで一つの驚きであり謎であり喜びでもあるが、それが人類史の中心にあるというのは、僕に言わせれば単なる勝利者史観という幼稚なイデオロギーでしかない。

ついでに言うと、僕が岸君のやってるような生活史みたいなのが胡散臭いと思うのは、たくさんの凡庸な人たちの生活を知って何かを言うことはいいけれど、彼らの生き様とか語っていること自体を膨大な分量で「陳列」することの総体に何か意義があるという思い込みが、既にイデオロギーだと思うからだ。でも、この作品はどこなのかも知らない街のありふれたスーパーの一角で起きていることを描いているだけであって、そこに喜怒哀楽なり恋愛なり友情なりが描かれていても、それはそこで起きているスケールに留まる。このような作品が、たとえば違うパターンで10作品だろうと100作品だろうと描かれようと、それらの総体がまるごとで世の中に何かを訴えかけるなんてことはないのだ。なぜなら、個々のストーリーは「まるごとで何かを訴える」一部分として要約されてしまうほど短い話でもなければ粗雑な話でもないからだ。これに対して、生活史と称する分厚い出版物を書店で眺めている限り、話を聴きとっている状況では長時間の会話になっているのだろうけど、個々の登場人物の話は総体としてのなにごとかを訴えるための部品になってしまっている。僕は、考古学を学んでいた小学生の頃でも「民衆史」をやろうと思っていて、為政者や文化人が中心の教科書的な歴史にはウンザリしていたのだが、あくまでも一人一人の生き方や考え方を丁寧に扱おうと思っていたので、結局はそれは無理だと思った。それは学問ではないし、学問である必要もないと思ったからだ。更に言えば、それは民衆史という capitalized な、つまり定冠詞が付いたタイムラインである必要もないのだ。

こういうことを書くのは、いかにも「在野」のアマチュアだと思われるだろうが、僕は大学院にいた頃から哲学は社会的な意義や価値をもつような営みではなく、最後の最後は自分自身にとって有意義であるかどうかだけが尺度の営為だと言ってきた。なので、大学院で学んだり研究して何になるのかと言われても、それが世の中にどう貢献できるのかという意味なら、それは学んだ僕自身が何かをすることでしか示せないわけである。それが論文であるか、それとも世の中に溢れている愚劣な哲学教員のエッセイであるかは知らないが、僕にはそういうものは最後の最後はどうでもいいことに思える。要は僕や連れ合いが有意義に生きたり暮らすことが基準であって、確率の概念を明らかにするといったことがその役に立たないなら、それで修士号を授与されていようと僕は研究を途中で放棄できる人間である。つまり、僕は哲学者であるよりも前に社会人であり、一人の人間だからだ。哲学の研究が最優先であるような人物というのは、通俗的には「カッコいい」かもしれないが、僕に言わせればそんな人は生成 AI に凌駕されてしまうような「哲学ロボット」にすぎない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る