Scribble at 2023-11-28 10:57:09 Last modified: unmodified

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Popular Science magazine shifted to an all-digital format a couple of years ago, and now even that’s gone.

After 151 years, Popular Science will no longer offer a magazine

報道機関や出版業界で、いわゆる大衆向けに科学の成果や技術の実績を紹介する部署とか媒体が縮小されたり事業としても停止するという状況にあるらしい。記事の中でも、あの National Geographic でさえレイオフしていると紹介されている。

僕はこれまで、プロパーがアウトリーチに労力を費やすのは無駄であると言ってきた。それよりもサイエンス・ライターのような職能を育てたり助成して、知識や技術を広く普及するための特別な能力に応じた仕事に専心することが有効だからだ。たいていの学者なんて、教科書を書いていても、その大半はものを書く能力なんて大してない。それどころか、多くの大学教員は教育者としては無能で凡庸な人物が多い(大学教員は教員免許などいらないので、教育について小学校の教員が知ってるような知識もなければ訓練の経験もない)。したがって、広く研究の成果や議論の様子を適切かつ有効に伝えるためには、専門の技能や経験をもつ人々を育成する方がよい。

しかし、それは媒体なり出版物として、昔だとセーガンとか、いまで言えばドーキンスとか、そういう科学の啓蒙家といった人々の著作物だとか記事だとかウェブサイトが増えたら良いという話とは別だと思う。そこに適正な基準とか競争がなければ、アウトリーチや啓発活動そのものの市場とか利害関係者のコミュニティが既得権益を抱えて話さない化け物に変貌したりするからだ。そして、個々の評価は別としても、いまやドーキンスやピンカーなどは「科学」や「理性」を語るアイドルになってしまっている。これは、逆に言えば「あいつらに言わせておけばいい」という役回りにされてしまうため、人々が真面目に技術や学問や知識の是非を自ら学んだり議論したり考えることを止めてしまい、編集工学おじさんや都内の成金読書家みたいな、致命的に生産性のない文化的なゴロツキというべき連中を排出してしまうことにもなる。

やはり、こういうものは事業でもあるから、市場なり購買層なりがどのように変化するかによって事業として成立するかどうかも変わる。こういうことは、学術的な意義ということだけでは決められないし、解決もしないのである。いまや、科学や技術に関心がある人なら、一定の素養があればなおさら、通俗的な雑誌を買って読むよりも Quanta Magazine や Nautilus のようなメディアがある。そして、僕が思うには通俗的な雑誌とかブルーバックスのような一般向けと称する出版物の根本的な限界は、これらがそもそも「科学に関心があって学びたいと思っている一般人」にしか売れないという事実にある。これは、僕が PHILSCI.INFO で「本当に philosophy for everyone を普及させたいなら、ヤクザの事務所に言ってプラトンの読書会をしてもらうように説得してみろ」と言っているのと同じことだ。実際には、popular などと称しても、そこには「#雑誌が買えるような境遇の人に限る」といった、重大な(たいていは経済的・政治的・文化的・宗教的な)但し書きがあるのだ。であれば、同じ理屈で事業として成立しなくなることに郷愁だの憂いだのを感じたところで、それはその人の出版や報道という事業に対する理解が未熟だったというだけのことでしかあるまい。

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