2017年06月20日に初出の投稿

Last modified: 2017-06-20

妄想であろうとなかろうと、何か信頼できる価値観というものが失われたり、すぐに色々な人々から批判されて相対化されてしまう今日にあっては、これまで常識とされてきたものの考え方や概念を再考してみるのもよいのだろう。どのみち既成の理屈が説得力を失い、通俗的な物書き教員どもは、やれなんとかダイバーだの、やれ古臭い文法がどうのと、反論するにも資料が限られているという事情をいいことに、すき放題に適当なことを書いている始末だ。そうして毎月のように出版される「新しい偏見」とか「新しい愚考」を追いかける暇やお金があるなら、真面目に研究されたり考えられてこなかったテーマは数多くの残っているのだし、そうしたテーマを取り上げて数年ほど調べたり吟味する方が、アマチュアにとっても有意義だろうと思う。

例えば、よく法律学では「更生」という概念が使われるのだが、発達心理学者でもなければ教育学者でもない人々が、いったい何の見識があって「犯罪者は更生できる」といまだに信じて疑わないでいられるのか。確かに、不可抗力で人を傷つけたり殺してしまった人もいるだろうが、故意がなくても不注意な人は簡単に注意深い人にはなれないし、クソみたいな商売をやって他人から金銭をむしり取ったり掠め取る人間というのは、「どうせ俺達なんて、こんなことでしか食っていけないのさ」という、昭和40年代風のアウトロー的なセンチメンタリズムごときで他人の平穏な生活を乱す言い訳になると思っていたりするならなおさら、更生など不可能だろう。それは、何かを信じて疑わないという段階の問題ではなく、既に矯正が困難な癖みたいなものだ。

もちろん、そうした人々を駆逐しても無駄である。そういう人が生まれて育つことを防ぐ方法はないし、誰を駆逐するべきなのかを勝手に決める社会など、どのみちそれを運用する人間も凡人なのだし、絶対に腐敗して深刻な結果を導くに決まっている。僕は、このところ流行している行動経済学の知見が教えるように、社会科学が扱うテーマについては何であれ、エージェントに馬鹿げた期待値や動作仕様を設定する理論は、それがどれほど形式的な美を備えていようと、必ず現実に打ち砕かれると思う。しょせん、人が認めるていどの数式表記の美しさや規則性の単調さなどというものは、人が理解しうる範囲での特性にすぎず、そのような特性が宇宙の特性であるというのは、間違いなく傲慢であり、こう言ってよければ「宇宙論的スケールでのセカイ系」だろう。

プラトンだろうとニュートンだろうとゲーデルだろうと、しょせん人は有限であって、もちろんこれらの人々は偉大な業績を残してはいるが、僕ら凡人との差はわずかである。

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