Scribble at 2024-01-12 10:17:07 Last modified: 2024-01-12 18:51:52

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絲山秋子『離陸』(文春文庫、2017)

この作品を手に入れた経緯は既に書いたので繰り返さない。

読み始めて暫く、おおよそ半分くらいまでは、正直なところウンザリさせられていた。東大出身の国交省エリートがつぶやく感傷的な独り言の連続で、しかもどういうわけか主人公らしき人物は次々と女性に思いを寄せられるという、高校生の男子が夢に見るような典型的とも言えるハーレム型のラノベを読まされているような気がしたからだ。でも、結局は最後まで読んだ。そして、最初の印象は良い意味で否定されることになった。

この小説に、いわゆる主人公はいない。主題だけがあると思った。

表面的にはストーリー・テラーの佐藤弘(さとう・ひろむ)という人物を主人公として、情景なり心情なりが綴られているようには見えるが、実のところ本作品の主題である人の生涯とか死という観点に集中すれば、はっきり言って誰の視点で書かれても良かった小説だと言える。登場人物の関心が交差している、或る人物の失踪という事実を共有してさえいれば、イルベールの視点からでも書けたし、茜の視点ですら書けた小説だ。たまたま、この佐藤弘という人物が何人かの登場人物の中で生き残っている(まだ「離陸していない」)からこそ、彼の視点を借りて物事の推移を追いかけられるというだけのことにすぎない。まったく、それだけの物理的な理由で彼の視点だけが残されたというべきだろう。

そして、その冷徹さは僕にとって好ましいものを表現できていたと思う。この作品で描かれる登場人物の亡くなり方は、それぞれ見方によっては「悲惨」というものである。結婚したばかりなのに子供を身籠ったまま急死したり、謎を抱えたまま家族や友人の誰にも看取られず一人で亡くなったり、狂った連続殺人犯にいきなり後ろから刺されたり、そして自分が何者なのかも思い出せずに衰弱死したりと、決して多くの人がこうありたいと思いを馳せるような死に方とは言えまい。でも、そういう死に方であろうとこういう死に方であろうと、全ての人は必ず「離陸」することになっているし、それまでにどれだけの悪事を働こうと善行を重ねようと、良い人であろうとなかろうと、何人の友人や子供がいようと、どれほどの財産があろうとなかろうと、結局は誰も避けられないところへ辿り着き、そこから「離陸」するほかにないという、究極の平等がある。この冷徹さを感じられるという一点で、この作品は評価されて良いと思った。

なので、他の登場人物も同じ理由から言って、同じく「離陸」する運命にある点では違いがない。恐らく、佐藤の妹が仮に帰宅途中で信号無視のトラックに跳ねられて即死する運命にあろうと、あるいは「ブツゾウ」という妙な名前の人物がネオナチにリンチされて変死体で見つかろうと、それから佐藤自身が酔った末に埠頭から海へ落ちて溺死しようと、恐らくこの作品のテーマにおいては大して重大な意味をもたない。そして、その無差別なありようこそが力強く訴えるものを感じさせるのだと思う。逆に、日頃の些末なことなど大して気に病む必要もないし、誰に何を言われたとか、誰が何をしているとか、国民なり会社の一員なり親族として注意を払うべきことは周りにいくらでもあるわけだが、でもその延長線上には何をやろうと結末は同じであり、誰も逃げたり否定できないところがある。ここだけは決してブレないという潔さを感じた。

それゆえ、主人公どころか、ストーリーすら本作品では脇役と言ってよい。本当のところ、この「乃緒」という人物がなんだったのかは全く分からないままなので、第一部から推理小説のように読んできた人にとっては消化不良に思われるかもしれないが、仮にこれがタイム・トラベルという SF 的な設定をもっていたとしても、あるいは外見がよく似ている親子で国際スパイだったという設定だったとしても、どういう経緯があろうと、人は必ずいつかどこかで「離陸」するという厳然たる行く末を前にすれば、その手の謎解きは大して重要なことではないのだ。

一点だけ問題があるとすれば、この「離陸」という着想なりコンセプトを、佐藤の思いつきなり信念として設定していたことだろう。これでは、本作品の主題である死生観のようなものについて、ああ、やっぱり東大卒のエリートが考えてることは鋭いし含蓄があるのだなという体裁になってしまい、ただのエリート称賛の作品に誤解されてしまう。わずか数ヶ月ほど勉強するだけでフランス語で仕事ができるような人間でなければ到達できない人生観・・・なんて安っぽい話であれば、そんなもの誰も読んだりする必要はない。ただの回りくどいだけのお説教か、あるいは小説の形を借りた演説になってしまう。

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