Scribble at 2024-09-24 14:07:08 Last modified: 2024-09-24 14:09:24
[...] human practical activity directly connects with and continually adapts to the structures and causal powers of external bodies. Awareness of practical activity thereby gives the human mind access to a mode of activity that is in direct contact and ever-greater accordance with the objects of the real world.
PHILSCI.INFO では何度か披露している議論だが、僕はいわゆる「心身問題」とか「意識のハード・プロブレム」を初めとする諸問題、つまり僕ら自身の主観的な経験とか理解や認識と客観的な事実あるいは実在あるいは世界との関わりについて議論されてきた問題というのは、われわれ自身の前提や想定や仮説に依存した set-up の中での関わりとか対応関係を議論しているという明白な事実を脇へ置いた時点で、全くの茶飲み話へ落ち込むと考えている。つまり、僕らが僕らの分かる範囲でだけものごとを解決して得々とするような自己欺瞞へ陥るリスクが非常に高い諸問題であって、哲学の教科書、なかんずくみなさんが喜んで手にしているような類の通俗本の類に掲載されているからといって、いやそれどころかオクスフォード大学の教授やハーヴァード大学の教授が専門書を何冊も書いているからといって、それが真に哲学として問うべきことなのかどうか自明ではない。
したがって、上のような論説において、哲学の学部生にすらお馴染みの「われわれの心はどうやって世界と関わり合うのか」という問いは、それを概念あるいは論理的に定式化して議論しようと、それとも肉体と外部環境との因果関係として議論しようと、前段で述べたような一点をしっかり据えていない限りは、僕に言わせるならそんな議論は「おっぺけぺー」と声を上げているに等しい愚行、それが言い過ぎなら暇潰しや時間の浪費というものである。「われわれの心」も「世界」も、そしてそれらが「関わりをもつ」という仮説も、すべてわれわれ自身が作り出したことである。これは独我論のような素人の妄想ではなく、しっかり哲学として厳密かつ体系的に展開するべき set-up だと言って良い。もし僕が科学哲学の教科書をちゃんと制作したら、その次はこのテーマに挑んでもいいとすら思う(でも、たぶん次は確率の哲学か因果関係の哲学のテキストを書くだろうな)。もちろん、この set-up をどうやって厳密かつ体系的に議論できるのかという条件を立てることは、僕のような cognitive closure 仮説の支持者、なおかつ可謬主義・有限主義の認識論を支持している者にとっては非常に難しいタスクだ。でも、やりがいはある。