Scribble at 2024-04-12 18:02:28 Last modified: 2024-04-13 12:42:59

僕は小学校に入る前の数年間だけ、実家の近くにあるそろばん塾へ通っていたことがある。暗算や伝票算もやっていたから、たぶん4級くらいまでは取ったのだろう。なお、現在は「伝票算」というものは教えていないという。確かに、実生活で伝票を数多く計算するということ自体、一般家庭ではやらないことだろうし、僕の実家がかつて薬屋をやっていたときには、親が毎日の夕飯を終えてからそろばんで集計をしていたのを覚えているが、そのうちレジの計算結果に任せてそろばんなんて使わなくなったし、何かの集計をするときは電卓を使うようになった。そして、いまはたいていの企業や個人商店では、Excel を始めとするアプリケーションが管理会計や財務会計の運用を担っているため、ふだんの業務では電卓すら使わないという経理担当者も多いことだろう。

そろばん塾では、暗算なども教わったので、もちろんそろばんという道具があるかどうかとは関係なく計算をする訓練を受ける。でも、そういうことに上達して、たとえば5桁どうしの掛け算を暗算でやるようになったからといって、それがどうしたのかという話になると、なるほど説得力のある説明は難しい。よく、海外からの観光客が驚く話として、買い物をしたときに日本の店員がレジや電卓も使わずにお釣りを返してくる事例がある。多くの日本人は暗算ができるということに驚くわけだ。それに比べて、二桁の足し算すら覚束なくて、いくら払えばいいのか計算が面倒になるとライフルを店員に向けて金も払わずに帰ってくるようなアメリカ人にしてみれば、IT 産業が発達して日本人のように暗算ができなくてもコンピュータに任せられるようになったのは、誠に結構なことであった。

こうなると、そろばんなどという謎のツールを使いこなしたり暗算ができるエキゾチックな芸者やニンジャどもに比べて、IT 産業の発達を寿ぐ人々には色々なアドバンテージができる。たとえば、どれほど計算が速かろうと、しょせんやっているのは人であるという限界がある。何ペタバイトにもなるアクセス・ログの集計を、サムライ・ボーイに任せたとしても、彼は数時間おきに寝たり、飯を食ったり、ウンコしなくてはならない。でも、IBM のパソコンは(耐久性を無視すれば)何時間でも働く。それに、労働組合なんて作らないし、ベア・アップの要求もしないし、パワハラだと訴えてもこない。まさに、合法的な奴隷である。

もちろん、僕はそろばんを使う技能だとか暗算の訓練は、そういうことに実質的な価値があるのではないと思っている。確かに、計算し続けるという生産性だけが問題なら、コンピュータに勝る手段はない。でも、コンピュータの操作には、使っている当人の認知能力を引き上げるような効果が乏しい。簡単に言うと、そろばんというツールを使う操作自体が「計算」の一部なのである。それに比べて、マウスを動かしたり、アホ面さげてボタンをクリックするような操作は、ハードウェアとしては computing の申し子であるコンピュータを使っているにもかからず、認知的には何の効果もフィードバックもない。なぜなら、そのときに僕らは、逆にコンピュータが動作するための部品(計算の一部ではなく、UI の一部)として振る舞っているだけだからである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook