Scribble at 2022-12-30 10:21:23 Last modified: unmodified

予定していた記事と言えば、CAP 定理について書こうとしていたのだが、これもいったん取り止めている。これは、検索してもらうと分かるように「CAP 定理とは?」みたいなクズ同然のページやブログ記事が山のようにあって、恐らく distributed system の概念など全く理解もしていない情報科学の素人が三つのタームについての観念連合(連想)だけでデタラメな解説を書いているのが実情だ。そして、これは東アジアの辺境国家に住んでいるインチキ IT 人材のガキどもだけではなく、海外のサイトについても同じようなことが言える。結局、こういう「定理」とか「証明」みたいなフレーズを弄び、自分の文章でひけらかすのが格好いいという凡俗の自意識プレイは、国や時代や民族とは関係のない愚かさなのである。

であれば、技術者でもあり情報科学や情報セキュリティの実務家でもあり科学哲学者でもある僕が解説を書いてもいいと言えばいいわけだが、正確に理解すると誰でも気づくように、CAP 定理は適応できる条件が制約されているため、実は素人が騒いでいるほどの一般論として議論するような話題ではないのである。それに、現行の多くの DBMS や distribution system というものは、CP だ CA だと画一的な基準だけで動かし続けるほど単純な仕組みではなく、必要に応じて異なる挙動を採用できるし、そういうフレキシブルな deployment に対応できることが望ましい。よって、C, A, P という三つのファクターを排他的にしか理解しないのは、それこそ素人考えというものであり、理論的にも、あるいはプロの技術者としても、現在は大半のデータベース技術者にとって CAP 定理は「知っている」ことが何らかのアドバンテージになるような蘊蓄でもなければ高度な知識でもなく、ましてやあらゆるケースで使える一般論でもないのである。

こう考えると、要するに「CAP 定理とは」みたいな記事を繰り返すことこそ、知識や学問の進展に対する下方圧力というものであろう。CAP 定理のような事項について、自分で正確に学んで活用できない無能はもう放っておいてもいいのだ。そういう低レベルな啓発を何億回と繰り返しても、しょせん有能な人間にとっては不要だし、無能には理解できない。そして、大半の凡俗には関係ないのである(知らなくてもいいとは言わないが、知る必要があると思ったなら自分で勉強すればいい)。すると、残るはゴミ掃除なのだが、検索エンジンで上位につけるのは難しい。すると、僕の解説へアクセスできるように的確なキーワードで検索してくれる素人がいるのかという、根本的な問題が残る。それは無理だ。昔のように、良いと思ったページにリンクすることで良質なコンテンツにアクセスが集まるような、牧歌的な時代は既に過ぎ去ってしまい、全ての人がトレジャーハンターの能力を持たない限り、良いコンテンツを掘り出すことはできなくなったわけである。でも、凡人がインディー・ジョーンズになるのは不可能であろう。

確かに、こういうことを言い出したら個人サイトで良質なコンテンツを公開しようという意図が全て意味を失ってしまう。今や検索結果は、どんな話題についてもゴミだらけであり、そこから自分のページを人々に見つけてもらうための的確なキーワードを相手に教えることはできない。だからこそ、いまだにテレビ・コマーシャルで「〇〇で検索!」とアイドルや吉本芸人に言わせているのである。しかし、だからといってコンテンツを公開するのは諦めるということになれば、そもそもゲームや連絡や買い物や公共機関の情報を得るという目的を除いて、インターネットを利用する意味はなくなるので、個人のサイトは全く不要ということになる。そして、いま実際にそういう事態へと進みつつある。

いわゆるテキスト・サイトとか個人のブログが一過性の流行として終わったことはいい。そんなものは大して由々しき問題とは思えないからだ。もともと他人に発信できる知識や情報を持っていないか、持とうと訓練したり学んだりしていない人間は、SNS であろうと口を開くに値しない。意見はもちろん好きに言っていいが、他人に物事を教える風なことをすべきではないのである。この区別ができないバカが多いからこそ、自分が学んだ学校についての意見と、「教育」についての意見を取り違えて、にわか教育評論家みたいな連中がオンラインで無数に生まれてしまうわけである。しかし、そんなものは全てゴミでしかない。意見はたくさん書かれていいし、お好きならそれが「民主的」な姿というものだろう。でも、学問や知識に民主主義など不要である。

よって、こういう夜郎自大なコンテンツが流行とともに失われても、人類の叡智にとっては何のリスクにもならない。過去の時代が窮屈で暮らしにくかったのは、勉強不足や思慮不足の人間が何事かを論じたり教えるような機会がなかったからではなく、自分の意見を自由に言えなかったからだ。そこをはき違えて、僕が言う意味での擬制として保守するべき権威主義を否定した「ゴロツキ民主主義」こそ、誠実な研鑽の成果を素人の分際で否定したり、あるいは個人のクズみたいな体験だけでマウンティングし、まともな知恵や知識の蓄積を難しくしてしまった。そして、皮肉なことに本当の天才だけがオンラインのゴミを無視しても業績を上げられるようになってしまっている。SNS やウィキペディアの情報を漁って過ごしているような、ガラクタの収集家みたいなオタク小僧なんて、実は知識を積み上げる能力などない生身の情報処理端末にすぎないのだ。

独自ドメインを維持するコストはどんどん増えてゆき、いまや年間で2千円ほどを要する。どれほど安くてもレンタル・サーバの費用と合わせたら、おおよそ1万円はかかるだろう。先進国で暮らす人間の遊興費としては決して高くない金額だが、サイトの運用だけを趣味にしているような人なんて逆にコンテンツがない人物なのである。ブログに記事を書くしかやることがなくて、他に何か勉強するのに費やしていないのだから、そういう「言葉の掃き出しマシン」に見識や学識などあるわけなかろう。仮にその人物が何らかの情報を常に得ていたとしても、そこにコストをかけていないなら、そういう情報はネットで検索してできただけのガラクタである可能性が高い。よって、garbage in, garbage out のフレーズどおりの結果となる。そして僕が思うに、大半の事例においては jewel in, garbage out でもありえる。

ということで、先にご紹介したレイテンシについての記事についても言えるが、この手の話題は有能な人は勝手に英語なり学術論文なりを自分で消化して結果を出していくのだろうから、僕らがいちいち啓発的な記事を書く必要はない。したがって、有能な人がゴミをオンラインで目にしないよう、僕らが良い論説を書くのではなく、たいていの話題について本当に重要な知見や知識はオンラインにはないと彼らに理解させることの方が大切である。(もちろん、オンラインに重要な情報や知識がある話題もありえる。それは否定しないが、実際にはウェブ・アプリケーション開発とかネットに関する話題についてすら少ないのである。)

なので、当サイトでは本当にまともな情報が少なくて、取り扱っている人も少ないという話題を積極的に取り上げようと思う。なので、A Long Way Home というテレビ映画の紹介などは、或る程度の意味があるはずだ。この作品について、思い出話くらいはブログ記事でも見かけるが、論説としては殆どない。

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