Scribble at 2020-08-30 11:53:27 Last modified: 2020-08-30 12:00:13

僕は自分でもロードレーサー乗りで、ここ10年くらいは乗っていないが、高校時代にシマノのデュラエースで組んだ一台を自宅にも置いてある。自転車競技を観るのも好きだけど、街中で乗るのは免許制にしてほしい。ここのところ、携帯でハンズフリーの通話をしながら運転してる人や、チャットの画面を見ながら乗っている人までいる始末で、いまのところ事故が目立って増加していないのは、もちろんわれわれ歩行者や車の方が用心して避けているからだ。したがって、そんな面倒を多くの他人にかけている自覚もない人間が往来に増えてくると、もちろんバックラッシュとして自転車を免許制にするどころか、自転車で通話してる人間に叱責する人とのトラブルが起きたり、自宅まで追いかけて行って自転車を破壊したり盗むといった事案も増えると思う。既に免許制となっている車ですら、わざわざバイクで追いかけて駐車場でさんざん車体に傷をつけるような者もいる昨今である。自転車を壊したりサドルを盗んで川に投げ込むくらい、腹を立てた人間にとっては、車に傷をつけることに比べたら大した心理的葛藤も起こさないだろう。

つまりは、もっと自転車を法律の「車両」であると自覚させるべきなのだ。こういうことについて、「市民の自覚に任せるのが何とか社会である」などとご高説を垂れ流す左翼も昔からいるわけだが、自覚できない未熟な段階なら制限せざるをえないのが合理的な行政施策というものであろう。いったい、任せるとは言ってもいつになったら自覚できるようになるのか。おまえたち東大や京大の安楽椅子で気楽に自由だの民主主義だのと概念をもてあそぶ社会科学者が死んでから500年が経過した後ですら、そんな自覚はもてないというのが、歴史の教える事実というものであろう。この感染症の流行に端を発するライフスタイルの変化が文句のつけようもなく実証しているように、社会というものは社会科学者のセンチメンタルで空想的な理論を書き殴った読み物などでは何も変わらない。自主的に何かを変えるということについて原則的な疑問をもっているわけではないが、たいていのことは病気とか災害とか行政施策という(行政施策は立法という根拠があるので、自分たちでそう選んだとも言えるが)外部的な要因が大半のきっかけになっている。それに、敢えて言えば、彼ら社会科学者が現実に理解していて変わるの変えるのと言っている「社会」とは、まさに彼らの学界とか出版社との人間関係でしかなく、それが部落差別の研究であろうと選挙制度の研究であろうと、そこに僕らが言う意味での「社会」なるものはないのである。

未熟なくせに何事でも気軽にできる社会が自由な社会だというのは、たぶんリバタリアンに毒された起業家のスローガンや左翼的な何かの錯覚だと思う。そんなことで実質的に「クリエーティブ」な変化が社会にもたらされることなど実はこれまでに一度もなかった。もちろん苦労自慢など誰も必要とはしていないが、綺麗に舗装された高速道路さえあれば「良い社会」だの「サイバーライオン」だの「上場」だの「知の巨人」だのという何らかのゴールや社会的地位にたどり着けると思っているのは、ただの中二病であろう。「なぜ、この『世界』は僕の思うように動いていないんだ!」というわけである。知るか、そんなもん。

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