Scribble at 2021-08-16 10:17:21 Last modified: 2021-08-19 19:57:03

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中竹竜二『新版 リーダーシップからフォロワーシップへ カリスマリーダー不要の組織づくりとは』(CCCメディアハウス、2018)

先入観はないのだが、どうも日本人による経営やビジネスの本は期待はずれな結果に終わることが多くて残念だ。この本も、最初に目を通したときは「ふむふむ」などと思ってはいたのだが、いざ丁寧に読み返すとすぐに放り出してしまった。これも通読せずに「もったいない本舗」行きだ。

確かに著者はマネジメントの実務家ではあろうが、他人にものを教えたり、自分の考えることを整理して説明するプロではない。つまり著述や解説の訓練をまるで受けておらず、また闇雲であろうと僕らのように独りで夥しい枚数の草稿やメモを積み上げた経験もないのだろう。日本語としての言葉の使い方や論述の展開など、完全に高校生の作文レベルである(灘高や開成高校の生徒には失礼な話かもしれないが)。学術書のような厳密な話をしないと冒頭に断っておきながら、舌の根も乾かぬうちに「普遍的な構造」だの「必然性」だの「二分化構造」などという〈格好良い熟語〉を繰り出す。まるで、図書館で見つけた『純粋理性批判』という難しそうな本で覚えた「認識」といった言葉を寝る前に日記へ書いてみては、将来の「新進気鋭の若手研究者」として日本のクズ出版社から『勉強しかできない耽美系アイコンの僕ちゃん』とか『暇と素人近代史講義の哲学』とか『郵便配達する幼女のエロアニメ解説』といった斬新な著作を出して一世を風靡する姿を夢見る中学生のようだ。

結局、論述の訓練を積んで何度も(優秀な)編集者や出版エージェントのレビュアーによって叩き上げられた人々(それはつまり海外の出版工程であり、大前研一氏が日本の杜撰な工程を輸出してはどうかと文句を言っていたプロセスでもある)の著作であっても、先日から何度も紹介しているようにクズみたいなものもあるのだから、いわんや編集者も著者も著述についてまともな経験や訓練を積み上げていない著書の中から〈当たり〉を見つけることはたいへん難しいということである。そして、我々は時間もお金も限られているのだから、合理的で効果的な方針の一つとして、やはり本を書く以前にたくさんのジャーナル論文を書いていたり発表してきた経験を堅実に積み上げてきた人々の著作を読むのが妥当なのだろう。そして、この手の「権威主義」を否定することはできない筈である。

強引に命令するだけのリーダーシップでは人は着いてこない・・・そんなことは、リーダーシップに関する古典的な著作にすら書いてあることだ(たとえば、いまとなっては古典的とすら言える『エクセレント・カンパニー』にも「リーダーシップはあからさまな権力の行使とは違って、〈従う人々〉の欲求、目標と切り離しては考えられない」とある。講談社文庫、上巻、p.168)。本書の議論は、「リーダーシップ」について誤解している特定の人々がもつ錯覚を〈旧来のリーダーシップ論〉などとして藁人形にすげ替えただけのことであって、彼が主張するようなサーヴァント・リーダーシップの亜流とも言うべき議論など、既に従来のリーダーシップ論を真面目に読めば幾らでも書いてあるのだ。よって、それなりにまともな本を読んでいる人は(この著者の個人的な経験を逸話として楽しみたいなら好きにすればいいが)、本書を読む必要は全く無い。

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