Scribble at 2022-10-31 12:10:40 Last modified: 2022-10-31 12:18:12

2000年代以降の「組合せ論(combinatorics)」にかかわる初等的なテキストを幾つか(と言っても数十冊にはなる)眺めているのだが、どうも解説の仕方に insightful なものを感じない。僕が思うに、高校で習う「場合の数」にしても同じことだが、階乗の計算なんて別に本質的でも何でもない。大半の解説がだめだと思うのは、そもそも与えられた状況が組合せなのか順列なのかを判断する基準がないということに、学習者の多くは困惑させられるのだということが分かっていないからだ。また、P や C といった記号で順列や組合せを表現すること自体はどうでもいい話なのである。そんなことは回答のための儀式にすぎず、数学という思考の本質でも何でもない。解説するべきなのは、それぞれの左下や右下にどういう数を入れたらいいのかを設定するにはどうすればいいかということであって、それらが決まれば後の計算や記号としての表現など些事でしかない。

これまでも書いてきたことが、高校数学の受験参考書だけでなく大学の数学のテキストも、数学を解説するときの何が重要であり、どこで多くの人が悩んだり混乱するのかというポイントを、高校の教師だろうと予備校の講師だろうと大学の数学者だろうと、何の苦も無くできる人々は理解していない。それゆえ、自分自身が全く数学のできない学生であるという強い自覚のある僕のような者は、たいていの数学のテキストに見受ける不徹底とか不備に出会うたびに思考や理解を押しとどめられてしまう。「数学なのに!」というわけだ。たとえば、いわゆる数学オタクどもが「行間を読む」などと秘儀のように語る論理の飛躍(数学のテキストはたいてい、論理的ではない)とか、未定義語を無断で振り回すバカげた議論とか、ご都合主義の天才少年が登場する対話篇とかにも文句は多いが、ともかく決定的にダメなのが、的確な理解のためのポイントをわかっていない的外れな解説を、延々と膨大な数の教科書で繰り返されることだ。そして、組合せ論のテキストというのは、大半の著者が、理解を阻む要因についてぜんぜん理解していない代表的な分野だと思う。それゆえ、ほとんどの教科書が読んでいて全く面白くない。たとえば、数学オタクに評判がいいとされるポリアの講義録などは、僕に言わせれば支離滅裂な居酒屋のおしゃべりとしか思えない。こういうものを「教科書」と称して、すでに理解している立場で通ぶった態度をひけらかすような手合いが、離散数学の普及を(日本だけでなくアメリカですら)停滞させる原因だろうと思う。

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