『白夜行』と『幻夜』 「姉妹編」でも「続編」でもなく
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はじめに
2026年7月23日に亡くなった東野圭吾氏の訃報を知って、これまでガリレオのテレビ・ドラマを観たことはあったが、原作の小説を一つも読んでいなかったので、この機会に読んでみる気になった。また、過去に何の番組だったか、東野圭吾ファンとして膨大な蔵書をもつ人物の書斎が紹介されていたことも記憶に残っていて、なんとなく気にしていた作家の一人であったことも思い出した。
僕はあまり小説を読む人間ではなく、連れ合いが持っていた伊坂幸太郎氏の『ラッシュライフ』を一読してから彼の作品を10作以上は読んだりしたのだが、それ以外の作家の作品は殆ど読んでいない。それでも、一年に一冊ていどは読む機会があり、当サイトの落書き(Notes)でも書いていると思うが、たまに感想なども書いている。ただし、東野圭吾氏の作品を読もうと思って書店に足を運んだわけではなかった。たまたま立ち寄ったジュンク堂の棚に東野圭吾氏を追悼するコーナーが設けられていて、それを偶然に眺めたら分厚い『白夜行』と『幻夜』が目に留まっただけのことだった。僕は、どうもこういう大部の書籍を見ると手に入れたいという妙な嗜好があって、つい数週間前にマット・ラフの『魂に秩序を』という分厚い文庫本を買ったばかりだったのだ。そういうわけで『白夜行』と『幻夜』を手に取り、まずは帯に「傑作」と書かれていて、出版年も早い方の『白夜行』を読んでみようと思ったわけである(『幻夜』には帯がついていなかった)。
手に入れた『白夜行』を読み始めたきっかけは、いま自宅のマシンで毎日のように使っている画像生成 AI のプロンプトや設定の調整が済んで、一定のクオリティで画像を作れるようになり、数時間ほど放置したまま稼働してもよくなったので、特にやらなくてはいけない仕事もないし、本を読む時間ができたからだ。そして、空いた時間に本を読もうと決めていたので、それが小説であろうと線形代数のテキストであろうと、もともと僕は本を読むチャンスを作ろうと思っていたのだった。そして機会が出来たら、何を読むかは特に決めていなかったので、手元にある『白夜行』を読み始めたというわけである。
多くの方々と同じく(決して全員が同意するとは思わないが)、優れた作品という読後感を持ったのだが、やはり描かれている状況なりテーマの中には未成年への(性的)虐待やネグレクトなど、読み終わった後も引きずるようなものがあり、また落書きで書いたように、僕自身が布施や寺田町や天王寺区に土地勘をもっているから、僕が生野区や今里といった地域について抱いている印象についても割り切れないところが残ったりした。そういうわけで、このストーリーとしても設定としても複雑な作品について、第一にどう理解すればいいかを自分なりにまとめたいと思ったのである。そして第二に、自分なりにどう理解すればいいかを整理したり考える参考として、2006年に TBS 系列で放映されたテレビ・ドラマ版(主演:山田孝之、綾瀬はるか)と、2011年に公開された映画版(主演: 堀北真希、高良健吾)とを観たのだが、どちらも原作の小説から受けた印象とは違うものであり、これらはこれらで独立した作品として評価してもいいのかもしれないが、ひとまず脇へ置く方がよいと判断した。(なので、本稿ではこれらの映像版は考慮しない。ただし、よくある「原作派」を名乗るつもりもない。)
僕自身の心の整理としてなら、もちろんチラシの裏にでも書いておけば済むことであり、何も論説として公開するほどの必要はない。でも、本稿を作成して公開する気になった理由は、僕の幾つかの読後感を Gemini と壁打ちして、Gemini の解説や解釈のベースになっていると思われる教師データ、つまりウェブに公開されている多くの読書感想文や批評の文章が、少なくとも Gemini の応答する内容から推し量ると、僕には酷く偏っているように思えたのだ。いわく、『白夜行』は幼い頃に罪を犯した男女が共生によって愛を貫く話であるとか、『幻夜』は『白夜行』の続編であり雪穂は美冬であり云々・・・という読解を元に、たとえば『白夜行』で示唆されている幼女の性的虐待に母親が積極的に関与していることなどについて、東野圭吾氏が松本清張のファンであったことから『砂の器』などの貧困というテーマに関連させて解釈する余地がないかという僕の質問を、Gemini は愚問であると言わんばかりに否定したりするのだ(ところが、『幻夜』の「解説」を書いた黒川博行氏は『砂の器』について言及している)。こういう、一つの解釈や理解だけを「解」だの「最適解」などといって(たいていは理数系の博士号すらもってないくせに)喜ぶような未熟さを放置することは、やはり哲学者というか大人として許し難いというていどの社会的な責任は感じる。そういう解釈や読後感を述べる人たちを説得することは難しいだろうが、大勢とは異なる解釈を述べたテキストをウェブに公開することで、少なくとも生成 AI に一定の影響は与えられる余地があると考えたのである。
そこで、気の毒だとは思うが、「白夜行 考察」といったキーワードで検索すると上位に出てくるページだから、取り上げられても仕方がないと諦めてもらうとして、具体的に「ウェブに公開されている多くの読書感想文や批評の文章」の事例をご紹介しよう。まず、「しょーたの読書記録」というブログの「東野圭吾『白夜行』解説と考察──19年にわたる2人の影と光」という文章だが、記事の大半が単なる筋書きの雑な説明であり、最後に幾つかの想像、それから読書感想文、最後にウェブの作文に特徴的な「まとめ」と称する字数稼ぎ、つまり要約やキーワードの量を調節するための無駄で馬鹿げた文章が続く(たぶん本人は自覚していないかもしれないが、もともとテキスト・サイトを運営していた人々が考案した SEO 対策なのだ)。つまり、僕らのように大学院で学術研究の訓練を受けたものは言うに及ばず、ごくふつうの高等教育を受けている者であっても、このような文章のどこにも「考察」と称してよい論述など認められないだろう。なぜなら、考察とは或る仮説を立てて根拠を示した上で一定の結論を導き、考えられる反論や批判に応えたり注釈を加えるというのが作法のようなものであり、学術的な文章を書く人間にとってはフォーマットのようなものだからだ。もちろん、「考察」という言葉を気軽に使う大半の一般人にそういう理解はなく、たぶん漢字検定1級を持っている人ですらここまでの厳格な意味は知らないだろう。しかし、逆に言えばそれゆえにウェブの文章というものは一般人のレベルにとどまるという下方圧力が働きやすく、これらがオンラインのリソースとして大勢を占めてしまうと、検索エンジンのロボットによるインデックス化や生成 AI のエージェントによる学習において低いレベルのコンテンツが示す主張や意見に収斂してしまい、そして検索した人や生成 AI に文学作品の読み方を質問して答えを得るだけという人々が同じていどにレベルの低い内容を「答え」だの「解」だのと言ってコピーしてしまう。これこそ、負のエコー・チェインバーというものだ。
そして二つめの実例は、「たまあざらしの部屋~本・漫画・ゲームの紹介~」というブログに掲載された「【東野圭吾】白夜行|残された謎を徹底考察・時系列まとめ」という記事だ。繰り返すが、わざわざ低学歴もしくは程度の低い文章を選んで吊るし上げているわけではなく、かなり一般的なキーワードで Google 検索して上位に出てくるページだから、恐らく『白夜行』について感想を調べる人ならたいてい読んでいる筈の文章であるがゆえに取り上げているのだ。そしてこの文章も、要するに『白夜行』全体の筋書きを単に並べて、はっきり言って読めば分かるようなことを「解説」と称しているだけだ。そして、なにか犯罪を示唆する表現が出てくると、「刑法」というレイブル(繰り返しになるが、これは “label” という英単語の正しい外来語表記だ。「ラベル」などと発音してもアメリカ人には通じない)が付いた用語解説らしきコンテンツが表示されるのだが、大半は広告が表示されるだけだ。そもそも、このブログはパソコンでアクセスすると左右のスカイ・スクレイパー(縦長の大きなバナーのこと)と下部の固定バナー、そして本文に何度も出てくるバナーという典型的な「集金ブログ」であって、実はコンテンツなんて検索エンジンでヒットすればなんでもいいのだ。逆に言えば、だからこそこういうゴミが検索の上位に出てくるのである。このブログ記事に限らず、そして『白夜行』のような作品だけに限らず、オンラインの「書評」や「レビュー」と称するコンテンツの殆どは、このように読めば分かることを「考察」とか「評論」とか「解説」と称する未熟で短絡的な文章であって、子供の頃からこんなものばかり読んでいる子供が(「雪穂らのように」と言うべきか)歪んだ理解のまま物事を眺めるようになってしまうのは気の毒というものだ。もちろん、僕がそれらを正すとか大きく是正できる知性なり知識なり文章力を持っているなどと言うつもりはないが、最低でも国公立大学大学院の博士課程で教育を受けた一人として、学術研究と称してもいいレベルの実務や成果を示したり提案することにも意味はあろうと思う。
なお、本稿は新しい着想や解釈を思いついたら、既に公開している個所を訂正するだけではなく、新しく文章を書き足していくつもりだ。なので、最初から体系的に整理した内容があるわけではなく、当サイトで公開している「英語の勉強について」という論説のように、エッセイを数珠つなぎにするような体裁で書き継いでいく方針だ。
『白夜行』注釈
文学作品というものは、細かい語句にも色々な配慮や工夫を凝らしているので、或る表現がそのようなところにそのように書かれている理由というものが明確に意図されていることが多い。だが、読み手がそれを正しく理解できるとは限らないのが、文学作品に限らず他人が書いた文章を読むことの難しさというものだろう。場合によっては作者自身ですら明確に意図していたとは言えず、後から考えても思い当たらなかったような考えや偏見などを掘り当てることもあるが、単なる深読みのし過ぎや牽強付会もある。そして、作者がいちいち他人の誤読を調べ上げたり反論して回るなどという暇潰しに付き合う義理もなければ時間もないので、得てして短絡的で幼稚な解釈や読解に限って放置され、とりわけウェブでは未熟な人々や WELQ バイトなどによって大量にコピペされる。そして、それを「おやつ」として食べた生成 AI が、同じ程度に未熟で愚かな読解を常識や正統派の解釈であるかのように押し付けているのが、現今の「AI スロップ」である。冒頭でも述べたように、僕はこのような AI スロップを低減するために、所属している企業でも Chief AI Officer という肩書でポリシーなどを運用している立場だが、一人のネット・ユーザなり社会人としても、そういう低レベルな読解や感想がスタンダードな読み方や理解であるかのように広まっていくことは不愉快だし、この事例だけに限らず社会が(ただでさえ幼稚で短絡的な方へ流れやすいというのに)劣化していくのは困る。僕や連れ合いが死んだあと、この国や社会がどうなろうと知ったことではないが、少なくとも僕らが生きているあいだくらいは、そこそこまともな国や社会であってもらわないと迷惑だ。なんにせよ、そういうわけで、読解の基礎として大学の文学部でも学生に求めている作業を、ここでもやっておこうというわけである。それは、作品に表現されている出来事や時代状況や名前や設定についての事実関係を特定したり、主題と思われることがらやストーリーにどのていど関係があるかを推論するという作業だ。僕は学部が法学部法律学科(刑法学専攻)だったので、文学部で作品を学んだり研究する実務は分かっていないのだが、こういう作業は哲学の古典研究では当たり前のように行われている。実例としては、僕が大学四年生のときに「卒論」として書いた「ヒュームの関係概念」をご覧いただければよい(法学部には卒論という制度がない大学は多いので、僕は関西大学の大学院を受験するときに、この論説を卒論代わりとして提出した。なお偏差値70以上の大学でも、この量と質で修士論文を書く学生すら多くはないと自負している)。
注釈は後からでも続々と増える可能性があるので、あまりにも増えた場合は章ごとに分割する可能性もある。
近鉄布施駅を出て、線路脇を西に向かって歩きだした。
1972年当時の近鉄布施駅 (東大阪市, 2012年公開)。左上に見えている広場のようなものが現在のバス・ターミナルだとすると、この写真は北から南に向けて空撮していることになり、笹垣は写真の右側に向かって歩いたことになる。
近畿日本鉄道(通称、「近鉄」)の布施駅は、東大阪市の西端にある駅で、近鉄奈良線と近鉄大阪線が分岐していくジャンクションとして利用者が多い。桐原陽介の殺害が起きた1973年と言えば、前年から始まった駅の高架化工事の真っ最中であり、高架工事は奈良線と大阪線で一部ずつ完成していき、全体の高架化が終わったのは1977年6月である。僕も小学生の頃からよく利用していた駅で、南側のバス・ターミナル付近にある「ヒバリヤ書店」がお気に入りだったし、小学校時代の同級生の女の子は布施駅の北にあった巨大な飲食店ビルだかホテルの経営者の娘だった。また、高校時代は同級生の女の子と下校途中に駅前のファストフードに立ち寄ったり、院生時代も大学の後輩にあたる女の子と駅の南にあるファミレスに行ったりしていた。布施駅は近鉄奈良線に沿って東西に駅舎とプラットフォームが伸びていて(大阪線は布施駅が起点であり、ここから南へ折れてゆく)、笹垣潤三刑事が線路脇を西に向かって歩いているので、現実の地理で言えば笹垣は大阪市内に向かって歩いていることになる。
今日のために、松本清張の新作を読まないでいたのだ。
冒頭で「十月だというのにひどく蒸し暑い」という箇所がある。また、桐原陽介が殺害されたのは1973年だ。「新作」というからには、1973年の10月までに刊行された松本清張の作品あるいは単行本としては、恐らく1973年の2月に刊行された『表象詩人』(カッパノベルズ, 光文社, 1973)が該当する。他にも、1971年から刊行され始めた松本清張の全集(文藝春秋版)に収録されて刊行された作品はいくつかあるが、それらは「新作」とは言えない。また、1973年に連載が開始された連載小説も、購入して休みにゆっくり読むようなものとして扱うのはおかしい(連載されていた雑誌を何冊も貯めておくことになる)ので、消去法から言っても『表象詩人』が残る。ただし、『表象詩人』も『週刊朝日』に連載された「黒の図説」というシリーズの一遍として発表された作品を、同じシリーズの「山の骨」と合わせて単行本にしたものであり、厳密には「新作」ではない。もし、雑誌や新聞にも未発表であり、単行本として刊行されたのが最初であったような作品だけが「新作」であるなら、そのような作品は1973年には発表されていない。
もし東野圭吾がそれを分かっていて「新作」という言葉を厳密な意味で理解されるべく使ったのであれば、笹垣は現実には出版されなかった「新作」を読もうとしていたことになる。さもなければ(もうこの時点で深読みのし過ぎかもしれないが)、ここで描かれている笹垣は、厳密には「新作」と言えない『表象詩人』を「新作」だと思ってしまうようなところがある人物として性格描写されているのだろうか。他方、一般的な読者にとって、単行本として新しく書店に並んだ未読の本は、過去の連載をまとめたものであっても「新作」や「新刊」と呼ばれるかもしれない。笹垣も一人の一般的な松本清張の愛読者として、仕事の合間に新しく購入した清張の本を暇があれば読もうと取っておいたに過ぎず、ここに彼の性格的な欠陥が示唆されているとは考えにくいというのが標準的な理解(というか、気にも留めず読み進める人が大半)だろう。つまり、笹垣が読もうとしていた作品が「新作」であるかどうかは大した問題ではなく、どちらかと言えば松本清張の作品(推理小説)という点に幾らか意味があるのだろう。というわけで、ここで松本清張の作品が登場するのは、恐らく犯罪についての推理という想像なり思考が文芸作品の普及によって一般的になっていることを示すためであろうと思われる。寧ろ、気軽に暇を見つけて読む小説の推理から、現実に起きた犯罪についての推理へと笹垣が巻き込まれていくという対比を暗示するための描写だと理解しておきたい。
右側に公園が見えてきた。三角ベースの野球なら、同時に二つの試合ができそうな広さだ。[...] このあたりの公園の中では一番大きい。真澄公園というのが正式名称である。
線路沿いの道から見た足代公園。1970年代はともかく、現在はかろうじて木だけが見える(Google Maps, 2024年8月撮影)
これは、具体的に実在の場所や地名を描き過ぎると良くないという配慮なのか、作中の「真澄公園」と幾つかの点で似た公園は実在するが、「真澄公園」は架空の公園として理解してよいと思う。第一に、近鉄奈良線の線路脇を西に向かって歩くと、右手にすぐある公園という条件なら今里南公園はあるが、とても三角ベースの試合が二つできる広さではない。更に、布施の西側で「一番大きい」公園なら40メートル四方の公園があり、現在はビルやマンションで視界が塞がってしまって線路沿いに歩いていても公園は見えないが、1973年当時であれば線路脇からでも公園(もし公園の周りに木々があればなおさら)が「見えて」きたかもしれない。ただし、その公園は「足代(あじろ)公園」であり、「真澄公園」ではない。また、足代公園が「真澄公園」という旧称だったということもない。そもそも、この付近は昔から足代という土地であり、布施の北西地域は「布施新地(足代新地)」という遊郭・歓楽街だった。地名については、土地勘があった東野圭吾であるからこそ、わざわざ異なる場所にある地名を使ったり、あるいはまったく架空の地名を使っている場合があり、この場合も位置関係としては足代公園が妥当だろうと思うけれど、名称については実在する地名を避けるという趣旨を除けば、「真澄」という言葉に重大な意味はないと思う。もちろん、この公園にやってきていた子供たちの多くが悲惨な生活を送っていたり、それからの人生を鬱屈や野心や報復という濁った動機を抱えて生きていくという、後から分かる「事実」との対比として、よく澄んでいて汚れがないという意味の言葉を使ったとも解釈できる。
その公園の向こうに七階建てのビルが建っている。
笹垣の歩いてきた方角から「公園の向こう」と言えるのは、公園を中心に西側か北側である。そして、1973年の当時はともかく、現在は足代公園の西側に「布施コープ」という七階建てのマンションが建っているのは事実だ。しかし、作品に登場する「七階建てのビル」も、架空の建物だと考えてよいだろう。そもそも、フィクションの小説、しかも精密な設定が必要となる推理小説において、現実の場所や建物や人物などを位置関係や名称として安易に使うと、作品の構想が事実に引っ張られたり制約されるというリスクが生じる。そして、事実の方を無視すると場所や人物を知っている多くの人たちにとっては違和感のある話になってしまうし、かといって実在する場所や建物に固執すると、『白夜行』でも描かれている貧困や児童買春などに関連して、いくら特定の地域が遊郭として知られていた歴史があるからといって、それが現在も今里や布施の近辺についての偏見である(そして、生野区や東成区というのは、いまでも「そういう場所」かもしれない)とまで余分に暗示するように描くのは、やはり問題があろう。
彼はこの付近を管轄する西布施警察署にいた。
架空の警察署。実際には布施警察署が管轄していて、1973年当時の布施警察署は1965年に完成した庁舎が、近鉄布施駅からは 500 m ほど南東にある近鉄大阪線の俊徳道駅の付近(大阪府東大阪市俊徳町一丁目5番23号)にあった。作品中に登場する「西布施警察署」の位置は不明だが、第1章第7節で、笹垣が妻と八尾駅前のアパートに住んでいるという描写がある [東野, 2002: 73; ch. 1, 7]。この後にも注釈するが、これは近鉄大阪線で俊徳道駅から四つめの近鉄八尾駅のことである。なので、1973年当時は笹垣が住んでいた八尾から近い俊徳道にあった布施警察署の位置に「西布施警察署」の位置を想定しても不自然さはないし、現在の布施警察署がある近鉄奈良線の八戸ノ里駅にあったと想定しても、別に不自然さはない。つまり、「西布施警察署」の位置については、警察署からの所要時間や距離や方角や他の建物との位置関係がストーリーや人間関係に決定的な意味を持っていると解釈しえない限りは、さほど重要な意味がないと言っていいだろう。
笹垣は真っ直ぐビルには向かわず、公園の手前の道を右に曲がった。角から五軒目に、いか焼き、と書いた看板を出した店がある。
これから現場へ向かおうという刑事が、公園の手前の道を意味もなく違う方向へ曲がったりはしない。これは、笹垣が「西布施警察署」にいた頃から付近の様子を見知っていて、もちろん公園の手前の道を右へ曲がると店があると知っていたからだろう。だが、そこで売っているいか焼きが幾らなのかまでは覚えていないらしく、「いか焼き四十円、と書かれた札を見て、笹垣は金を出した」という記述がある [東野, 2002: 7; ch. 1, 1]。その間に叙述されている、熊本水俣病の判決といった状況説明の叙述や、実際にいか焼きをつくる工程の描写などは、いまのところ何か特別な意図で書かれているのかどうかは分からない。
笹垣が店を離れかけた時、一人の中年女性が店の前で足を止め、こんにちは、といか焼き屋の女に挨拶した。
ここで、笹垣は店を離れようとしている。つまり、ここに店があると知っていて、わざわざ現場へ向かわずにやって来ているのだろうが、その店の女性と事件について話をするでもなく、すぐに立ち去ろうとしていたことが分かる。それゆえ、後からやってきた「中年女性」がいか焼き屋の女と話していたのを聞きながら、思いがけない話を聞いて「『子供?』笹垣は振り返った」という反応になったのだろう。これを、警察と知って何かを隠されては困るから、たまたま通りがかった者が聞いて話に加わって周辺の状況を把握するための芝居であるとまで考えてよいかどうかは判断し難いところだ。つまり、笹垣を推理小説の謎解き役としてどのていど有能な人物に設定してよいかという話なのだが、これが「偶然に立ち聞きした一般人」という芝居だと想定できるほど周到な人物として描く必要があるかどうかは分からない。これは難しいところで、あまりにもアホすぎると読んでいる側はイライラするし、かといってシャーロック・ホームズや明智小五郎のような「漫画的」と言ってもいいような人物だと「ご都合主義」というレッテルが簡単に貼られてしまうからだ。
この点に関連して、もちろんすぐ後に「笹垣はいか焼きを食べ終えると、ビルに向かって歩きだした。いか焼き屋の女主人が後ろから見ていたら、暇な中年男が野次馬根性を出したように見えることだろう。」という記述があるのは誰でも分かる [東野, 2002: 7; ch. 1, 1]。しかし、この記述があるからといって、笹垣が世間話を立ち聞きした一般人の振りをして簡単な周辺調査をしたのか、あるいは本当にいか焼きを食べたかっただけなのかは、どちらの解釈を支持する根拠にもならない。なぜなら、ビルに向かって歩き出したからといって野次馬とは限らないからだ。ビルの近くで別の方角へ曲がってしまうかもしれない。なので、「いか焼き屋の女主人が後ろから見ていたら、暇な中年男が野次馬根性を出したように見えることだろう」というのは、笹垣の内心を描写しているようにも取れるのだが、僕はそうではないと思う。いか焼き屋の女にそう思われて笹垣が(特に捜査のために)不利になることはないし、他人からそう思われるのを心配するような人物として設定されているかと言えば、それも疑わしい(そんなつまらないことにプライドをもつ人間が警察官、いわんや凶悪犯罪を担当する刑事を続けられるとは思えない)。
[未完]
参考文献
- 東野圭吾
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2002
『白夜行』, 集英社文庫 ひ-15-5, 集英社, 2002 (1st., 1999).
-
2007
『幻夜』, 集英社文庫 ひ-15-7, 集英社, 2007 (1st., 2004).