Scribble at 2026-08-21 07:03:17 Last modified: 2026-08-21 07:21:56
僕は、クリスチャンを啓蒙とか啓発という営みや議論の脈絡では信用していない。さすがに『聖書』の翻訳や解釈にまで重大な疑義を挟むつもりはないが、世俗のクリスチャンと称する人々がやってきたこと(それは世界史の教科書にいくらでも書いてある)や現今のクリスチャンと称する人々がやっていること(曽野綾子、麻生太郎、結城浩といった権力なり名声がある裕福なお歴々だが、逆に言えばそういうポジションがなければディスクローズしても効果がないのだろう)を見れば、とてもではないが何事かについての啓発、それが文学だろうと政治だろうと数学だろうと成功しているとは思えないし、いわんや彼らによって神への信仰を育み始める人なんて皆無であろう。
そして、彼らはそれを分かってやっているとしか思えない節がある。それは歴史の教科書に出てくる有名人だろうと、色々な土地へ足を(勝手に)踏み入れて原住民に殺された宣教師であろうと、彼らは相手がどうであるかよりも自分が神の名によって何を為すかという自意識だけが問題なのだ。つまりは、事の是非や事象そのものの内容や価値よりも自意識を優先する態度は逆に自己欺瞞へ陥るので、こういう人々の自己満足的な啓蒙活動や出版活動というのは、僕の哲学から言えば受け入れられない。僕が、結城浩氏の通俗数学本を「教科書を書く意欲も才覚も責任感もない無能なプロパーの excuse」だとか「結局は勉強しない素人の代わりに物事を短絡化して見せる漫画」にすぎないと切り捨てる理由は、これである。
さて、その結城浩氏も X で(絶対に読まないであろう素人、あるいは既に読んでいるプロパー、つまりは誰にも効果がないメッセージであることが分かっていて)盛大に紹介している、テレンス・タオの "Mathematics in the age of AI"(arXiv:2608.16753)だが、こういう生成 AI の威力なり成果を(無批判に礼賛しているわけではないが)控えめながらも一定の範囲で肯定的に評価している論文やブログ記事が数学者とかシステム開発の人々から出てくるたびに、やはり強い違和感を覚える。なぜなら、数学の証明やシステム設計や情報セキュリティの脆弱性チェックといった、いわばコンピュータによる自動化という目標を掲げて AI とは関係なく半世紀以上も前から行われてきた研究分野に関連して大きな成果を上げているにすぎないと思えるからだ。しかし、いまだに最新版の ChatGPT であろうと Gemini であろうと簡単な質問にすら平気で嘘をつくし、二次関数のグラフすらまともに描いてはくれない。もちろん、何度も言うようで恐縮だが、学部レベルの論理学の素養すらもっていない人が Principia Mathematica を AI で翻訳させるなんてのは無知・無責任・無頓着の愚行でしかない。
なるほど、生成 AI によって表計算は 95 % くらい正確に実行されるのだろうし、翻訳も 95 % ていどは正しく行われるかもしれないが、仕事の成果やクリエーティブというものは、残る 5 % の欠陥によって価値がゼロになるものだ。銀行員は毎日のように集計のミスがゼロでなくては帰宅できないわけで、そのために何度でも集計をやりなおすであろう。そして、参照するべき正解という情報をもっているからこそ、そういうことが常に行われる。しかしながら、生成 AI はコンピュータ・サイエンスの原理的な観点から言って、拡散モデルの開発においては教師データ(正解や目標)が存在するかもしれないが、開発された拡散モデルが生成するテキストや画像や楽曲の是非を判定できるだけの正解を参照しながら生成するわけではないので、結局は自身のレスポンスが正しいかどうかを判断できない。簡単に言えば、大半のゴミを見せられる僕らが正解を知っているという前提で判断しているのであって、従来のネット・ベンチャーのビジネス・モデルと同じく、僕らユーザ自身が AI 企業へお金を払って志願しているテスターのようなものなのである。数学者やシステム・エンジニアなどは試行錯誤が仕事のようなものであるから許容範囲かもしれないが、多くの一般人は、同じ程度の一般人が回答するのと変わらないくらい間違える機械になど期待はしないのである。ましてや、それが表計算のように間違えてはいけないタスクであれば、なおさらだ。