2017年02月20日に初出の投稿

Last modified: 2018-01-30

イスラム過激派が何かをすると、過激派の考えとは異なる考えを抱いている人であっても、イスラム教徒である以上は「テロを非難します」的なことを言わなければ、「テロを支援している」と見なされる……それが「儀礼」化しているのは、このような決め付け (bigoted assumptions) があるからだ、とフィッシャーさんは厳しく指摘しています。そしてそこに潜んでいる循環論法についても。そして「そうでなければ、私たちはイスラム教徒ならシドニー立てこもり犯のハロン・モニスを非難して当然などとは考えないだろう。ハロン・モニスは正式な宗教団体とはまったく関係のない狂人であることは明らかだ。クリスチャン(キリスト教徒)なら(オクラホマ連邦ビル爆破犯の)ティモシー・マクヴェイを非難して当然だなどと考える人がいるだろうか」

「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。

そもそも、そんなことを一般市民が大声で言えるのは周囲に身の危険がない場合や、自分自身に何か政治的な抑圧がある場合だけであって、つまるところ一般市民のムスリムをこういうことを言わせようとすること自体が政治的な抑圧なんだよ。

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