Scribble at 2024-02-13 08:33:32 Last modified: unmodified

昔からよく分からないことの一つに、やたらと「文献史学」と「考古学」とを区別しようとする人がいたり、それぞれが異なるアプローチを採用することが当たり前であるかのように言う人がいて、これは小学生の頃は気にしていなかったけれど、森浩一先生や瀬川芳則先生といった考古学の先生たちから色々な分野を勉強しろと勧められるようになった中学時代になると違和感を持つようになった。

たとえば、よくあるのが、考古学は遺物や遺跡を研究するのに対して、文献史学は文書を扱うという。で? どっちも「モノ」じゃん。地層を読み解くことと、木簡や仏像の底に書かれた文字を読み解くことのあいだに何か決定的で重大な違いとか差があると思い込む理由は何なのか。過去に起きた事柄や過去にあった事実が知りたいなら、地層だろうと古文書だろうと何だって活用するのが歴史に関わる学術研究者の基本的な姿勢というものであって、それをたかだか土器に興味があるとか卒塔婆を解読するのが好きだとか、そういう個人的な興味だけで歴史に対する特定のアプローチの是非や優劣や適不適を論じるのは、まさしく傲慢というものだ。よって、僕は考古学を学び始めた頃から即座に明治時代を研究する考古学があってもいいし、旧石器時代を研究する文献史学があってもいいと思った(後者は奇妙に思えるかもしれないが、古文書に登場する土地や地形の記述、あるいは土木事業の記録から旧石器時代の環境を推定する参考になる)。

こういうわけで、もちろん僕も先生たちから「考古学の学生でも古文書くらい読めたほうがいい」とは言われていたのだけれど、残念ながらそこまでは手が回らなかった。考古学の勉強とは違う目的だけれど、いまにして『大鏡』の原典なんかを読もうとすると、少しは学んでおけば良かった気もするが、ここは底本から注釈書をつくった人々を信頼したい。そこまでは、もう手が出せない。

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