Scribble at 2026-08-18 17:33:10 Last modified: 2026-08-19 09:57:36

日本科学哲学会の会長や理事なども歴任された戸田山さんが亡くなったとのことだ。68歳とのことなので、いかにも早世と言ってよく、お悔やみ申し上げたい。この業界、ひとたび大学を出たら、たとえ指導教官であろうと年賀状の他に相手の様子をうかがう機会も動機もなくなってしまう(もちろん、戸田山さんは僕の指導教官ではない)。かろうじて学会に入っているからこそ、こうして面識がない方についても知る機会があるわけなので(いや、ダミットが来日した時の京都科学哲学コロキアムに来てたっけ)、実はお恥ずかしいことに博士時代の指導教官であった森先生が亡くなったことは喪中葉書で知ったのだった。

そういや、竹尾先生はウィキペディアの記載だとご存命になっていて、失礼な話だが驚くべきことに今年で100歳だという。すげーな、ラッセルより長生きなのか。やはり、こういう妙なところでも弟子はとうていかなわんね。僕は恐らく、そんな年齢までは生きられんだろうし、仮にシンギュラリティとやらが達成されて不老不死の技術が実現しても、そんなもんの恩恵にあずかれる機械伯爵のような財産なんてないから、『銀河鉄道999』の世界と同じで適当に死んでいくのだろう。

それはそうと、亡くなった方についての思い出話とか、どさくさに本の紹介をするとか、X で俄か哲学者どもがさんざん投稿してる瑣事を話すくらいの思い入れはないのかと言われるかもしれないが、しょせんは本だとか YouTube で読んだり眺めているだけの人物であって、一定の敬意は払っているけれど、別に特段の思い入れがある研究者だとは思っていない。『論理学をつくる』は確かに名著だと思うけれど、これがなかったら論理学や論理学の教育や啓蒙が遅滞したり退行したり歪んだ向きへ進むリスクが大きくなるかと言われても、そんなことは感じない。

しかし、あくまでもプロパーとしての成果だけでも色々な業績があるのは事実である。僕が戸田山さんの業績として最初に触れた著作物は、もっと以前の、それこそ僕が二十歳の頃に手にしたホワイトヘッドとラッセルの『プリンキピア・マセマティカ序論』(哲学書房、1988)だが、色々な分野に大きな影響を与えた著作でありながら、全訳はいまだに岩波文庫にすら収められていないという体たらくだ。もちろん、これを全訳する企画があれば戸田山さんに監修なりなんなりで手掛けてもらうのがよいと思っていたが、それも不可能となった。それから、彼の『哲学入門』(ちくま新書、2014)については、かなり前に簡単な論評を書いたことがあるけれど、僕の評価は「(哲学とはなんであるかというテーマについての)思想としては〇だが、(概念工学という)哲学としては△」というものだ。特に、概念工学のような表面的には認識論や言語哲学やポパーの世界IIIみたいな話をしている様子の人々の著作というのは、簡単に言えば本人ですら自分が唯名論者なのか実念論者なのか分かりにくいという混乱が起きやすい。そして、こういう通俗書にプロパーが業界人っぽい関心を向けて読み解くのは暇潰しとして楽しいかもしれないが、やはりそれは「事象そのもの」についての議論ではないという気がする。だが、哲学とはなんであるかという議論には学ぶべきことがあった。

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余談として書いておくと、『プリンキピア・マセマティカ』のような真の古典を収めるどころか、いまやバーリンのエッセイだとか、ポパーの自意識過剰な自伝だとか、はっきり言って科学哲学の研究者という立場から言っても「雑文」としか思えない著作を次々と追加している岩波文庫の青帯の通俗化の度合いは由々しきと言うべきであろう(それに比べて、白帯には古典的な名著が適切に加わっていると思う)。オンラインでは、自動翻訳で Pricipia Mathematica を「翻訳」するなどと豪語して、研究者、翻訳家、あるいはちょっとした哲学者気取りの人が湧いているわけだが、実際には素人なんてポーズや恰好だけの宣言が大半である。そもそも、Principia Mathematica が「600ページ以上」だとか明白な嘘っぱちを書いていること自体、プリンキピアについて生成 AI のデタラメをもとに書いているだけだろう。実際には、原著で三巻の合計が2,000ページを超える。僕が持っている *56 までの縮刷版ですら450ページもあるのだ(確かに、2,000ページが「600ページ以上」であることは論理的に真であるとは思うが、こういう bullshit が通用するなら「1ページ以上」と書いてもいいわけだ)。で、素人の分際で翻訳などと簡単に言うが、実際には自動翻訳させるのですら非常に手間がかかることを実務として分かっていないのだろう。加えて、あくまでも AI が吐き出した訳文を推敲する必要を感じるていどの誠実さがあればの話だが、正確かつ厳密な推敲には最低でも論理学か分析哲学のドクターに相当する見識が必要であることが分かっていないんだよね。だから、Google Translate や AI に原文を流し込んで、他の AI に原文と照らし合わせて訳文をチェックさせるだけで済むという素人考えになるのだろう。ていうか、いまリンクした note の人物なんて、宣言したはいいけどブログそのものが1年前に更新が止まってるわけで、現実の素人は実生活や仕事や本来の趣味を優先して構わないけれど、できもしないことを宣言したまま放置するのは(僕にも幾つか宣言したままの課題はあるが)よろしくないと恥じるていどの節度はもつべきであろう。

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