Scribble at 2023-08-30 21:06:03 Last modified: 2023-08-31 09:37:54

「日本の古本屋」というサイトで、たまにアマゾンでは異様なプレミアの価格がついている本を探している。アマゾンの転売屋の多くは、何か売れる兆候があると即座に価格を引き上げるため、そこまで文学的な価値や学術的な価値があるわけでもないのに、どこかで話題になったとたんに文庫本が10万円になったりする。よって、たまたま高額な値段がついているときに読みたくなったりすると、とても買えない値段になっていたりするから、諦めないといけない。それから検索結果と同じくアマゾンには古い本がないため、だいたい1970年代よりも古い時代に出版された本は、見つからないか状態の悪いものしかないという印象があって、「日本の古本屋」みたいに専門のサイトで探す方が選択肢は増えることがある。

ということで、いま暇潰しに『黒部峡谷』(保育社)という古い本を読んでいて、そういや保育社の「カラーブックス」に刺繍の本はなかったろうかと探してみた。もちろん、僕が色々と調べている(東京)文化刺繍のタイトルが無いか調べるためだ。でもアマゾンでは全く見つからないので、「日本の古本屋」(いちいち括弧書きして煩わしいかもしれないが、こうしないと日本の古本屋という一般名詞で語っているように読めてしまう)で「刺繍」というキーワードで検索してみると、検索結果を何ページが進んだ末に、幸運にも藤崎豊治氏の『文化刺繡の基礎と應用』(1931)を見つけたので、さきほど注文したところだ。こんな偶然は珍しい。本書は、文化刺繍についてのスタンダードな本であることは知っていたけれど(https://cir.nii.ac.jp/crid/1130282269443694592)、古本としていまでも手に入るとは思っていなかった。2,000円という手頃な値段だし、これは手に入れるしかない。

[追記:2023-08-31] さきほど埼玉のポラン書房さんから返事があって、残念ながら店頭で売れてしまったようだ。また次の機会を待とう。少なくとも古本として流通していることはわかったし、特に急いで手に入れたいという事情もないから、チャンスがあれば買おう。ちなみに、大阪市立図書館と大阪府立図書館には蔵書がない(それどころか「文化刺繍」というキーワードで何もヒットしない)。また、家政学とかの研究者もいないらしいので、『文化刺繡の基礎と應用』のような原典を手にした上で、僕のように文化刺繍の作品を自分で作ったことのある人間が何か書いて残さない限り、たぶん民俗学的な水準では1次資料と呼べるような体験談を書く人はいなくなってしまう。もちろん、原爆の体験談や震災の体験談に比べたら遊びごとの体験談なんて大して値打ちはないと思うが、少なくとも記録として残すだけのものはあろう。僕は哲学者としては下らない比喩とか喩え話こそ「オッカムの剃刀」によって哲学(特に分析哲学)から放逐したいと思っているけれど、ごくふつうに生活している者としては、こういう無駄と思える知識や情報や経験を残すことにも何らかの意味があろうと思う(なので、確かに揶揄してはいるが、岸政彦君らの書くような分厚い聞き書きや日本の社会学者の仕事が無意味だと言いたいわけではない)。

ところで、デリダやハイデガーに学んだ人間であれば、「哲学から下らない喩え話を放逐する」と言っても、比喩とそうでないもの、あるいは哲学から「詩的・文学的」色彩を除外するといったアプローチこそ批判されるべき短絡やインチキ合理主義ではないのかと言いうる。もちろん、そんなことは高校時代にフーコーを読み始めた人間が自覚もなしに言うわけがない。しかしながら、多くの議論が陥りやすいのは、哲学は descriptive でもあるし normative でもあるという区別を忘れることである。そして、メタの議論としてかような区別があるという descriptive な(或る意味では文化人類学や認知科学の領分と言ってもいい)スタンスもあるし、この区別を normative だとして認知科学から独立に議論しようとする人もいよう。そして、ポストモダンの思想が教えるように、こうした区別には究極の基礎とか根拠なんてないわけだが、しかしそれはなぜなのかという点で僕はポストモダンの思想とは異なる意見を持ち、それは簡単に言えば僕が「クワイン派の科学哲学」を自称している理由にもなっている。つまり、あらゆる知的営為は連続的であるからして、descriptive vs. normative を区別する明確な基準とか区分もないし、そもそもここまで述べてきた「メタ」レベルと下位のレベルにしても正確な区別ができるものではない。よく英語で "skyhook" と言ったりするが、いちどに高いレベルに引き上げてくれる「天使のクレーン」のように便利な道具などないわけで、科学と哲学、哲学と認知科学、認知科学と民俗学、そして民俗学と文化刺繍、文化刺繍と知覚の哲学などなど、あらゆる話題や分野は関連付けできる。

僕が普段から、特に哲学の通俗書に見られる程度の低いイラストや図表や漫画で哲学を表現することを侮蔑しているのは、何も哲学を漫画やアニメごとき低級なもので表現などできないなどと考えるからではない。逆に、哲学とエロアニメにも何らかの連続性がある(よってエロ漫画で哲学を解説してもいいし、ヤクザ映画に登場するチンピラが哲学を語ってもいいわけである)、エロアニメと重量理論にも何らかの連続性があってもいい(それをまともに関連付けできる知性や学歴がアニメおたくには欠落しているだけの話だ)。したがって、文化刺繍と科学哲学を間れ付けてかまわないし、それを説明するために小説やイラストを使ってもいい。問題は、そういう関連性があらゆる分野にあるというコンセプション(「コンセプト」とは違って、もっと壮大で根本的な着想を意味する)が、そういう通俗本をてがけるイラストレーターや編集者、いやそれどころか哲学のプロパーにも欠落しているというのが、クワイン派の科学哲学者として言いたいことである。要は、プロのデザイナーとしても言えるんだけど、いま流通してる漫画やアニメやイラストを使った哲学の本なんてのは、無能が作ってるんだよ。

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