Scribble at 2024-07-11 12:29:08 Last modified: 2024-07-11 13:00:40
上の事例は YouTube で斎藤貴男氏が語っていた、LGBTQ に関わる議論の批評へ加えられたコメントなのだが、こういう漠然とした感想を放り投げて、誰も批判できないような「ポジション取り」をしてしまう人っているんだよね。もちろん意図してわざとやってる狡猾な人もいるにはいるんだけど(たとえばコールド・リーディングの使い手とか詐欺師とかはそうだ)、無自覚にこういう発言をする人もいて、それはそれで切実な感情があるのかもしれないけど、こういうコメントで他人の気を引こうとしても無駄だと言いたい。
なぜなら、「世の中全て」なんて雑に一括りにしていること自体が本人の雑な思考やものの見方、つまりは偏見を自ら証明しているようなものだし、「当事者置き去り」なんてフレーズは一見すると正義を語っているように感じるけれど、実は内容が殆どない、誰も証明しようがないことを言っているのだ。もっと言えば、この「当事者」って実はたいていこの人物自身を指しているわけであって、早い話が「わたしに注目してくれ」と言ってるだけだったりすることがある。
気の毒なことを言うようだが、差別されているとか、生活が苦しいとか、それだけのことで他人があなたに注目してくれるほど世の中は都合よくできてはいない。だって、差別されてる人は世界中にたくさんいるし、貧しい人も世界中に大勢いるからだ。あなたという個人に注目してほしいなら、それにはそれだけの何かが必要であって、それがないことを社会や他人の責任にするのは、僕はいくら差別される側であっても極端な考えだと思う。あるいは、個々の差別されている人に、注目されるような何かをアピールせよなどと過剰な責任を求めないためにも、僕らは個々人を救うというよりも制度を改めることにコミットしているのだ。それを「当事者置き去り」なんて言っているのは、差別される側にも社会システムや制度というものを理解していない人がいるという事例にもなろう。