Scribble at 2023-12-03 19:07:44 Last modified: 2023-12-04 19:04:29

よく、もうこれは SNS が登場した頃から三流の評論家や社会学者でも気軽に語ってきた話だけど、日本で Twitter が爆発的に普及して SNS を利用する人が多いのは、そういうイージーな評論家の見立てとやらによると、日本には川柳や俳句や短歌という短い章句の形式で表現する文学があるからなんだって。そんなの、小学生でも思いつく連想だよね。でも、それって本当かね。

そもそも、短歌や俳句なんて大多数の日本人にとっては伝統でもなんでもなかった。こんなのは一部の貴族や武家や豪商とかの遊びごとであったろうし、そうした一部の人々にとってすら文化でも文学でもなく遊び、あるいは宮廷で出世するための処世術の一つだっただろう。となると、僕らのような百姓(これは「ひゃくせい」と言って、農民の意味ではなく、いろんな職業の平民という意味だ)の末裔にとっては、せいぜい小学校で少しずつ授業で教わり始めるお勉強の話題でしかないだろう。いまでも自宅で短歌を詠む高齢者いわんや労働生産人口の人々がいる家なんて珍しいはずだ。それとも君たち上流階級のやんごとなきお父様やお母様は、どこの流派の短歌を詠まれるであろうか。あるいは川柳を、「クソ眼鏡、またも増税、はよ代われ」とか詠むんだろうか。まぁ代わっても増税はやるだろうけど。

すると、伝統というよりも小学校から高校まで国語の授業で習っていて慣れているから、自分たちでも短い文章で理解したり表現することに慣れているのだろうか。それもどうかと思うね。そもそも、僕らは自分たち自身のプライベートな生活で短歌や川柳なんて読まない。寧ろ、SNS やショート・メッセージというサービスなりテクノロジーが与えられているからこそ、短い表現でメッセージを送るようになったんじゃなかろうか。実際、そういう制約がなければ、女子高生なんて休日になったら12時間くらい電話で友達と喋ってたり LINE でやりとりする人もいるだろう(とりあえず、その是非はここでは議論しない)。

つまり、僕らの実態から言っても歴史的な事実や経験から言っても、別に僕ら日本人が他の国の人達よりも特別に投稿文字数の少ない SNS に適応できる生活や歴史的な経緯を負っているわけではないのだ。よって、こういう見かけの上で短歌や川柳と X などの UX が少ない文字数で表現するという点で似ているからといって、そんなところに何か強い結びつきなんてないのである。仮に、少ない文字数で表現するという仕様を考えるときに日本の haiku を参考にしたとしてもだ。

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