Scribble at 2023-11-05 10:56:13 Last modified: 2023-11-05 11:41:54

認識論を「認知科学で基礎づける」というアプローチだけでなく、「神経科学や認知科学へ還元する」という消去主義があるのと同様に、ここ数十年で少しずつだが、認識論を社会科学で基礎づけるというアプローチも普及してきた。但し、社会科学で explained away しようとしているかどうかまでは、知らない。もとより、個々の人々が担ってきた認識論的な思考というものに、文化や時代といったタグがぶら下がっていることへ反論できる者などいまい。いまや多くの人々が知るように、AI の推論ですら元のデータがウェブなのだから、ネトウヨ発言を続々と出力する LLM なんて、それこそ歴史や文化どころか garbage in, garbage out の教科書的な典型である。では、理論としての、つまり世界 III における認識論は普遍的でありえるのだろうか。「定義による」と言えば終わってしまいそうだし、恐らくそういう想定は normative なものとして正当化できるとしても、それ自体が社会科学的に説明する他のない正統性(「正当性」ではなく)を必要とするだろう。

しかし、どうも僕はこの social constructivism にしても、なんだかインチキ臭くて哲学としては認めがたいものを感じる。もちろん、個々人のやっていることに文化人類学的あるいは社会学的な解釈(いや、それどころか一部の人は弁証法的唯物論から革命的な解釈を施すのであろう)ができるという事実は認める。たいていのプロパーなんて、実際には或る意味で「純粋な」動機で個々のテーマを選んでいるというよりも、たとえば科研費を受給しやすいとか、その手のスケベ根性でテーマを選んでいたりするものだ。そして僕は、それがいけないとは思っていない。僕自身がサラリーマンであるという事情もあってのことだが、そもそも「純粋な」動機で哲学をやるなどというロール・モデルこそが宗教団体やマス・メディアや夢見るアマチュアどもやクズみたいな物書き連中の捏造だからだ。もちろんだが、全ての哲学研究の動機がファイナンスであるなどと言っているわけではない。

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