Scribble at 2023-08-12 10:12:04 Last modified: 2023-08-13 10:23:39

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円の中央にあるのが「ダイヤモンド広場(La Plaça del Diamant)」だ。緑地に見えるが、石畳の何もない広場の周りを木が取り囲んでいるだけなので、日本のいわゆる公園とは違う。

マルセー・ルドゥレダの『ダイヤモンド広場』を一週間くらいかかって読み終えた。しんどい小説だった。カザルスについて調べているときに、カタルーニャ文学の有名な作品として知られている本作を古本屋で見かけて買っておいたのだが、そろそろカザルス・ホールについて調べるのも限界があるなと感じて、まとまったウェブ・ページを制作・公開して一区切りにしようと思っていたことから、なにかの参考になろうと読み始めた。しかし、エピソードが細分されているのに、その細分されたエピソードで描かれる内容が異様に細かい。このディテールにはそれぞれ何の意味があるんだろうと思いつつ読むので、なかなか進まない。そして、作者は本作品について僕が感じたことと同じことを言われて怒ったらしいが、物語の鍵になる事物について書かれたディテールとは対照的に、登場人物の性格描写が(表面的には)酷く単純で、かなり読み進めていかないと、ただのプレイボーイにナンパされた頭の弱い女の子の苦労話にしか思えない(いや、文学なんていう脈絡での定評など知ったことかと思う人なら、そういう読後感を抱いても不思議ではないし、僕はそれを低級だの感受性がないのと批判するつもりはない。しょせん、そういう「深遠な」解釈なんていうのは、それこそ主人公には長らく縁のなかった膨大な暇があってこその産物だろう)。ただ、どれほど急いで字面だけを追っていたとしても、40番台の節を数える頃には、そういう理解が少しずつ改められていくような気もするが。

それから、カタルーニャ文化の研究者である訳者の田澤 耕氏も書いておられるように、この作品は土地勘が掴みづらい。細かい描写があるわりには、主人公らがどういう場所に暮らしているのかという理解が像を結ばないのだ。それは、たとえば主人公が外出して街を歩くときでも、彼女がどこかへ行く途中で目にしたぬいぐるみのディテールだけが描かれて、どういう通りをどちらに向かってどう歩いたのかは、はっきり言ってどうでもいいかのようだ。その途中に何を見たかとか、誰が立っていたかということだけが重要だと思っているかのような態度である。なので、そこに住んでいる彼女にとっては当たり前の態度なのだが、彼女の振る舞いや内面の描写を通して読んだり理解しようとしているわれわれには、彼女にとっての当たり前である経路についての知識が省略されているために、スナップ写真を見せられているような印象を受けるわけである。

典型的なのが、作品の題名になっている「ダイヤモンド広場」だ。これが、どういう場所にあって、どれくらいの広さで、広場に何があるのか、主人公には当たり前の知識でも、僕にはぜんぜん分からないので臨場感がまるでない。また、岩波文庫の扉に掲載してある地図が非常にわかりにくい(そもそも、東西南北のどこを向いているのか示さない図を「地図」とは言わない)。Google Maps でグラシア地区を表示して見ると、岩波文庫で示されている図は現実のバルセロナ付近を東へ45度近くも傾けて描いてあることがわかる(つまり、岩波文庫の地図を左へ45度くらい傾けると北を向いたときの眺めになる。ちなみに、一緒に頭まで傾けるバカはいないと思うが、それはいまどき吉本新喜劇でもやらないネタだ)。そして、Google Maps で実際に "La Plaça del Diamant" を眺めると、小学生がハンド・ボールをすれば全体を占拠してしまうほど狭い場所であることがわかる。たぶん、日本だとここで櫓を立てて盆踊りをやるのは狭すぎて無理だろう。でも、逆にこの狭さが異様なほど細かく描写される事物の矮小さ(価値がないという意味ではない)に合っているような気がする。そして、そういう慎ましくも矮小な暮らしにも戦争は大きな影響を及ぼすし、結婚や出産や就職といった出来事も大きな影響を及ぼす。実際、この作品を読んだ後に幾つかの感想文を見かけたのだが、一般的に強調されるほど「戦争」は作品の中で過大な出来事としては扱われていない。寧ろ、それ以外の人生で起きる色々な出来事とさほど変わらない扱いだと思う。現に、この作品には(岩波ならぜひ主人公に叫んでほしいであろう)「戦争が憎い」といった、草の根左翼的で実は無責任なセリフは出てこない。そんなことを主人公に言わせなくても戦争を憎む作品(本作がどこまでそういう意図を含むかはわからないが)というものは成立する。

他にも幾つか書いておきたいことがあるので、今後もここに追記するとは思うが、まず書いておきたいのは、一般論としての評価では美しい文章ということになっていて、それは原文での評価であろうから、日本語としての美しさをあまり感じなかったとしても、この作品を貶めることにはならないだろうと思う。もちろん、全く感じなかったわけではなく、そこは訳者が文学者というよりも言語学者であるため、仕方のないところではあろうと思っている。あと、何かと言えば「30ヵ国語に翻訳されていて云々」って言うけど、翻訳はされていても読まれているとは限らないんであって、少なくとも Wikipedia のエントリーを見る限りは古典的な作品として扱われているようには全く思えないね。たとえば川端康成の作品も相当な国の言葉に訳されてるだろうけど、日本ですら読んでる人なんて逆に珍しいだろう。それと同じことだ。

2つ目。本作は「恋愛小説」であると作者も強調しているし、たぶんそうなのであろうとは思うが、正直に言わせてもらうと恋愛のストーリーとしては二流だという感想しかない。色々な感想とか解説を読むと、収入がなくなって絶望し息子と娘を殺して心中しようとしていた主人公を雑貨店の主人が救ったという筋書きを「劇的な展開」であるかのように評している人が非常に多いのだけれど、僕は作品全体としてはいくらでもそのチャンスがあったと思う。なぜなら、冒頭での少女時代の主人公について描かれている内容からわかるように、主人公のナタリアは許嫁がいようとプロポーズされるような、たぶんその地域では飛びぬけた美少女という設定なのであろう。したがって、ところどころで、周囲にいる何人かの男性から、本当は君が好きだったんだという意味合いの言葉をかけられるシーンがある。よって、未亡人となったナタリアの境遇を知っていれば、何かチャンスがあれば声をかけたり助けようとする人がいてもおかしくないという状況が最初からあったと言える。しかし、ナタリアはそれが分かっていなかった。それと対比して、ナタリアの娘はといえば、自分が一目惚れした相手であっても、それを死ぬまで隠しておくと、わざわざ結婚式のパーティで母親に耳打ちするわけである(そういう意味では、心理劇としての面白さはある。たぶん彼女の息子も娘も、この小説を読んで「自分というものがない、頭の弱い女性のストーリー」という、作者が怒るような理解を、まさしく自分の母親に向けているのではあるまいか)。

そして、もちろん書いておくべきなのが、キメット(前夫)の偏執的な行動あるいは意味不明な発言などの奇行だ。現在は、こうした言動について「発達障害」という便利なレッテルが簡単に貼り付けられることもあるが、おそらく適切ではないだろう。このようなレッテルは、つい30年くらい前であれば、同じく簡単に「キチガイ」などと言われていたのと同じくらいイージーなレッテルだからだ。要は「分からない」と言えばいいものを、右翼みたいな無知無教養な連中と同じく、自分の理解や感受性や予備知識のなさを相手の異常さゆえに分からないのだと思い込む便利なからくりにすぎない。たとえば鳩を飼いだした話について、いかにも未熟で幼い発想だが、考えようによっては仕方のないことでもあろう。なぜなら、彼らは本当に幼い歳で結婚したかもしれないからだ。カタルーニャで飲酒できる年齢は2002年に18歳へ引き上げられたが、それまでは16歳になれば酒を飲めた。本作では、結婚する前から小ダコを肴に一杯やったという表現が何度か出てくるために錯覚してしまうかもしれないが、十代で結婚した可能性もある。すると、前夫のキメットはナタリアと大きな歳の差があるようには設定されていないから、彼もせいぜい20歳前後であるとすれば、家具職人として10年もキャリアがあるわけでなし、独立して稼ぐには力量不足であろう。よって、若者に特有の無謀なアイデア(鳩で一儲けとか)を思いついても、別に発達障害と言われるようなことではないだろう(もちろん、多くの人が指摘するように、彼の女性観は「異常」なり「不当」と言って余りあるだろうとは思うが)。

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