Scribble at 2023-06-06 14:27:07 Last modified: 2023-06-06 14:38:04

数年ごとに論文をフォロー・アップしているテーマが幾つかあって、"multiple realizability" もフォローしているテーマの一つだ。いまだに国内ではまとまった分量のまともな論説を読んだことがないのだが、その理由の一つは、心の哲学だ、デネットだ、チャーマーズだと騒いではいても、大半のプロパーですら脳神経科学の基礎的な素養すらないままガラクタみたいな思弁を重ねているだけだからだ。想像だけで意識や心や認知能力をあれこれと考えたり喋っていても、そんなもん数時間ともたない。そして、その後に展開されるのはラノベや程度の低い SF 小説みたいな妄想でしかない。そして、プロパーの大半はそれが分かっているからこそ、論説として公表することもないわけである。そういう意味では堅実だと言えるし、皮肉な意味で誠実だとも言える。でも、堅実で誠実なだけでは哲学しているとは言えない。

システム開発の実務家として言えることがあるとすれば、コンピュータというものは原理的に近似値しか扱えないという事実である。メモリや計算能力の有限性から言って、コンピュータが無限小数を扱えないのは、小学生にすら分かる話だろう(円周率というたった1個の実数を小数展開して無制限に記憶させるだけでも、宇宙のあらゆる物質を日立の工場へ送り込みストレージの部品製造に充てたとしても足りない)。

そこまでの精度ではなくても、コンピュータの計算というものはそれを動かす元になっている計算モデルそのものが現実の現象や物質や物事の単純化である他にない。それが1式で何百億円のスーパー・コンピュータを使った気象予測であろうと、その元になるデータは、観測地点を除くすべての場所の気圧や気温や風のベクトルは全て予測値であって、現実の値ではないからだ。あらゆる地点の計測データが揃わなければ計算できないといった非現実的なモデルを使うなら、そんなモデルによる気象予測は全く不可能になってしまう。なぜなら、これも最初の話と殆ど同じことだが、観測できる三次元上の「点」というのは現在の推計気象分布で使われる 1km のメッシュよりも更に細かいメッシュで定義した地点をどんどん増やせるからだ。ただし、この場合は無限小数の桁を無限に増やせる話とは違って、メッシュの分割には限界があろう(たとえば電子や中性子の直径よりも小さな区画に分割して「気圧」や「風力」を語る物理的な意味はないからだ)。しかし、仮に限界があるとしても、1cm ごとに全ての地点の気圧や気温を計測できるかというと、もちろんそれは不可能だ。なぜなら、その測定装置やスーパー・コンピュータこそが計測する地点の邪魔になるからである。更に計測装置を 1cm 以内の小さな筐体に製造できたとしても、世界中の全ての地点で 1cm ごとに配置された計測機器が置かれたまま、人はどうやって生活すればいいというのだろうか。

したがって、脳において様々な物質の相互作用として起きている意識や心といった事象をコンピュータの計算結果として「再現(realize)」するというアイデアには、何らかの制約条件でもない限り、どう考えても無理がある。脳の全ての神経細胞を同時に計測することも無理であろうし、計測できたとしても、全ての神経細胞を同時にシミュレートする並列型のコンピュータを実用化しても、それをヒトの脳と同じコンパクトなサイズにすることだって不可能であろう。もし、そのアイデアが研究資金を集めるためのマーケティング的なホラ話でないというのであれば、コンピュータの計算とその結果が、脳という生体の働きとその成果と比べて、どういう点で「同じ」であり「再現」であるかを厳密かつ正確にあらかじめ定式化する必要があろう。しかし、コンピュータ・サイエンスの基本的な知識だけでも、そういう定式化は原理的に不可能であるように思える。

もちろん、だからといって multiple realizability というコンセプトそのものが否定されるわけではない。コンピュータの機能として再現できなくても、ひょっとしたらタコヤキを100個ほど集めたら「心」や「意識」を再現できるかもしれないからだ。しかし、いま述べたような冗談が示唆するように、そんなことは僕には出来の悪い SF だとしか思えない。

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