Scribble at 2025-06-17 07:25:38 Last modified: 2025-06-17 07:59:23
哲学の著作で取り上げられている議論や概念が、著者自身の言葉の運用によって根本的に歪曲されたり誤って印象づけられてしまうことはあって、もちろんそういう言語分析は、サールだろうとデリダだろうと丁寧にやるべき仕事であろう。
僕は当サイトでもコリン・マッギンの cognitive closure 仮説を支持していると書いているが、しかし彼の『意識の〈神秘〉は解明できるか』(石川幹人、五十嵐靖博/訳、青土社、2001)には不用意な表現や言葉の選択、あるいは相変わらず分析哲学者に多い安易で荒唐無稽な喩え話の類が散在していて、コンセプトはともかく彼の著作はとても他人に一読を勧める気にはなれない。
たとえば、脳は心の「子宮」であるなどという表現は、彼が後にセクハラで騒がれた一件を知っている人たちにとっては笑い話か逆に苦々しい比喩にしか見えないだろう(というか白人男性、しかもイギリス人なら、彼でなくとも息を吸うようにこの手の下ネタを口にしていると思うが)。また、僕は心の哲学や意識の哲学についてものを書いている人々の相当な割合に巣食っている偏見として、とにもかくにも「意識」とか「脳」という言葉を振り回すことが FPV という観点をスポイルしている事実に気づかない軽薄さというか浅薄さに、いつもイライラさせられている。たいていにおいて、FPV として認知能力を行使している僕ら自身は、自分の意識とか脳を決して観察したり外から眺めることはできないし、それどころか「自己意識」と呼ばれているメタ的な知覚ですら、それが実際に自分の意識についての認知なのかどうかは、いまのところ明快な論証がないと言える。なのに、心の哲学者でござい、アメリカで博士号をもらってきましたと名乗っただけで、たいていの連中は「心」や「脳」という概念を自分の遊び道具として平気で持ち出しては、数千円の本を他人に売りつけているわけである。
いま、あなたはウェブ・ページを眺めていて、そして自分がいまウェブ・ページを眺めているという情景や状況「について」、何か第三者的に(これも意識の哲学者が好んで使う表現だが)舞台の袖から眺めるように知覚することが自己意識だとされるのだが、これは僕には全くのインチキ芝居にしか思えない。その最も強い理由は、その自己意識が起きているときに、当の意識はどうなっているのかという点が無視されているからだ。何かについて意識しているという情景を自己意識しているとき、では自己意識とやらで認知されている意識とは何なのか。それは、まさに何事かを認知しているという自己意識のことではないのか。いつ、どうやってそれをわれわれは対象物のようにして「眼の前に据えたり」できるというのか。それは、よくあるラノベ的な想像のように、自分を斜め上から眺めて「客観的に」評価したり反省しているといった、視覚的で絵画的な、つまりは漫画的な情景が自己意識だという set-up を現実に起きていることであるかのように錯覚しているだけではないのか。そういえば、かつてデネットは自分が意識を自己意識として認知することはできないと言って、それを別の哲学者から精神病であるかのように無礼な扱いを受けたそうだが、僕も多くの(たいては無能な)分析哲学者からキチガイ扱いされるのだろうか。
それから更にマッギンの本を読み進むと、二元論の話が出てくる。これも、色々な出来損ないの喩え話を並べて議論の展開に活用しようとしているのは分かるが、たいていの二元論は彼と同じように「心」と「脳」の対比を持ち出すだけに終止してしまうので、結局は歌舞伎の評論みたいなものになってしまう。しかし関連付けるのが難しいのは、「心」と「脳」の対比などではなく、FPV として現にいまここで認知しているという事実と、「心」などという哲学的なおもちゃとの対比なのである。マッギンの cognitive closure 仮説に沿って言うなら、FPV としてのわたしたちの認知経験は、自分自身の意識についてすら認知的に閉じており、実際には自分の意識を観察などできないのはもちろん、「ああ、これか」などと感じたりもしていないのである。