Scribble at 2026-07-06 14:46:22 Last modified: unmodified

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Turning Salmon’s causal process theory into process ontology

当サイト(旧 PHILSCI.INFO)でも公開している論説で取り上げた、ウェズリー・サモンの process causation というアイデアについて、これを process ontology という理論に取り入れようという話だ。昔から、もちろんホワイトヘッドの「プロセス哲学」なんていうのも知られているし、dynamic な変化や動きそのものを扱おうとする理論というのは、それなりの事例があった。でも、はっきり言えばどれも成功していないし、フォロワーや後継者もいないのが現状だ。ホワイトヘッドのプロセス哲学「について語る人々」というのは山ほどいるが、彼の理論を拡張したり補正しつつ進展・展開させた人はいない。せいぜい、発想の一部を参考にして何らかの議論に応用する人がいるだけだ。

従来の形而上学では、というか大半の人には「従来の形而上学」すら何のことかわからないと思うのだが、物質や物体、粒子といった静的な実体を基本単位として世界を捉えてきまた。しかし生物学的なシステムにおいては、絶え間ない変化こそが生命の本質であり、生命とは生命「活動」以外のことではありえない。よって、静的な実体に基づいた枠組みでは生命の動的な性質を十分に捉えきれない。そこで、世界を静的な「もの」の集まりではなく、時間的に延長された動的なプロセス、つまりは「こと」のネットワークとして捉え直そうとするのがプロセス存在論だという。

このプロセス存在論を発展させる上で大きな課題となっているのは、変化のなかでプロセスがどのように持続(persistence)するのかとか、プロセスに時間的な部分(temporal parts)を認めるべきかということだ。近年、ジョン・デュプレ(John Dupré)のような研究者は、科学的説明のために開発されたサモンやフィル・ドゥの causal process という理論が、生物学にも応用可能であると主張した。しかし、デュプレの議論は具体的な改定のディテールを欠いていたため、本論文ではその隙間を埋めるべく、サモンの初期の理論を修正・補強した新しいモデルを提示している。

サモンのオリジナルの理論は、因果関係についてのヒュームの議論(必要な結びつきや隠れた能力を認めない立場)を尊重し、観察可能な標識伝播(mark transmission)によって因果的プロセスを定義しようとした。しかし、このアプローチは反事実的条件法への依存や循環性の問題から多くの批判を浴び、最終的にサモン自身もこの探求を断念することになった。本論文の著者であるエッサーは、このヒューム的な制限をあえて取り払い、プロセス自体に固有の能力や傾向性(disposition)を認めようと主張する。エッサーが提案する改定版のフレームワークでは、因果的プロセスとは傾向性の束(dispositional profile)を相互作用の合間に伝播させる実体のことだとして再定義される。プロセス同士が交差するとき、それは単なる静的な刺激と反応ではなく、お互いの傾向性が対になって発現する相互発現(mutual manifestation)として捉えられる。この相互発現によってプロセスの傾向性の束が変化することこそが、変化を生み出すという議論である。うーん。正直言って、Gemini の解説を読みながら、いつ途中でぶった切ってやろうかという気分になるのだけど、もう少し続けよう。

プロセスの持続性という難問に対して、本論文はいわゆる「アット・アット理論(at-at theory)」の着想を支持し、プロセスは時間的に延長されているものの、離散的な時間的パーツに分割することはできないと論じる。この非局所的で分割不可能な性質は、量子力学における波動関数の時間進化の記述とも親和性があると指摘される。さらに、生物学で見られるようなマクロな階層構造(分子、細胞、器官、個体など)がどのように成立しているかという構成(composition)の問題についても、プロセス存在論の視点から説明が試みられています。エッサーはハーバート・サイモン(Herbert Simon)の複雑系の議論を引きながら、ミクロな下位プロセス同士が外部のプロセスと交差するよりも高い頻度で繰り返しの相互作用を行うパターンのなかに、マクロな複合プロセスが立ち現れると説明する。このマクロな複合プロセスは、独自の安定した傾向性の束を伝播させる能力を獲得し、これが持続性をもたらす。

そして最後に、このプロセス存在論が実際の科学的説明にどう貢献するかが検証される。科学哲学における「新しいメカニズム理論(new mechanical philosophy)」や、ドゥの「保存量説(conserved quantity theory)」といった因果モデルは、世界そのものの究極的な存在論を提示しているというよりも、複雑な現実世界を扱うための高度な抽象化(abstraction)や理想化(idealization)を伴った説明モデルとして捉えるべきだと著者は主張する。

えーと。まず、結論でこんなことを言ってるわけだから、もうこの議論に "ontology" という言葉を使うのは止めるべきだと思う。なんだかんだ言っても、説明上の工夫とか人の認知能力に最適化した言葉による定式化の範囲でやってるだけのことなのだから、これは明らかに認識論的なカテゴリーとしての因果関係を議論しているのであって、その先に「それに見合う・対応する実在としての因果関係がある」なんて言っても、この議論そのものに根拠はない。事象をうまく説明できるだけでは、それに該当する実在の何かがあるというには不十分だからだ。

そして、ここまでの幾つかの段落で引っかかるところがあるのは、結局のところ dynamic というものを説明できていないと思えるからだ。これこれが動的であるのは、それが動的な能力をもつからだみたいな話をしているだけにすぎないようにみえる。基本的に、何かが動くのは、それを動きとして知覚しているわれわれの生理的な仕組みに原因があり、それが何か動くものを知覚するために発達したという発生論を根拠にしたところで、それは何かが動くのをわれわれは知覚するという事実を述べているだけである。それは、何秒おきかで discrete に発生する刺激の連続した記憶をまとめて理解するための、金魚やマントヒヒでも備えているような認知スキームであって、存在論の根拠になどならない。要するに、サモンの理論に対する批判と同じように、ここでの議論にも循環論法か、もしくは論点先取があるようにしか思えないわけである。

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