Scribble at 2026-01-26 11:53:28 Last modified: 2026-01-26 11:57:53
ここで大事なのは、体言止めだと、これらのどの解釈が正しいかは伝えられた側にはわからないことだ。体言止めは、このように解釈の幅があり、どう解釈するかは曖昧になって相手任せになってしまうのだ。結果として、体言止めで言葉数は減っているものの、相手の情報処理においてさまざまな解釈をノイズとして発生させ、意味をピンボケにしてしまうのだ。
この手の些末なポイントを小出しにするのが、ビジネス系の自己啓発ネタで小遣い稼ぎしているライターとか、三流大学の学者とか、経営コンサルの手合いだ。もちろん、内容は間違っていないとしても、あまりにも些末な話を延々と何年にもわかって繰り返したり、手を変え品を変えた「なんとか大全」みたいな本を表装替えして出版し直したり、多くの人々は振り回されるだけだ。それでも、大半の人々はサラリーマンとして勤めている30年前後のあいだに、この手の本を順番に読み進めて企業人生を終えていく。そして、就職してきた人々は、上司や先輩からこの手の話題を教えてもらう機会はないため(居酒屋でこういう話が真面目に継続して語られることなど、実は殆どない)、またぞろ全く同じことを繰り返す。したがって、出版業界というのは知識やスキルの継承だとか共有が真面目に行われていない、凡庸な企業社会というものを利用して飯を食っているわけである。これを経済学では情報の非対称性だとか言うが、そんな難しい話ではない。大多数の凡庸で愚かな消費者を相手に、ネタを握っている出版業界が儲けているというだけのことだ。
なので、こういうのはクリシンだとか文章力だとか論理がどうのこうのという、日本の哲学教員や物書きも関わっている市場の話ではあるが、企業だとか経済とかに何の関心もなければ興味もなく、ましてや見識すらない人々にあっては、簡単に人間関係や利害関係で流されていく他にない。企業人として哲学者を名乗っている、僕のような人間に通俗的ななにかを感じて蔑んでいるとしても、きみら都内の哲学教員はそれ以下の「出版業界の生体部品」にすぎないってことなのだ。