Scribble at 2025-03-03 17:03:53 Last modified: 2025-03-03 17:26:11

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岸田氏の写真入り広告を出したのは、都内に本社がある株式会社「ECODA(エコダ)」。同社ホームページによると、家庭向けの太陽光パネルや蓄電池の設置、設置後サポートなどを専門とする事業を手掛け、「電気は買って使うから、買わずに溜めて使う時代へ」などとうたう。

ソーラーパネル広告に岸田文雄氏 なりすましか 事務所は「本人に間違いない」

そうそう。こういうのは、どんどんマス・メディアが権威を活用して吊し上げたらいいんだよ。各個撃破は手間がかかるけれど、ひたすら繰り返して商売にならないと思わせることが重要だ。キャンペーン・サイトの構築や運用など、広告業界に関わっているからこそ言えることだけど、なんだかんだ言っても中小零細の多くは怠惰で無知な素人を騙して小銭を稼いでるインチキだからな。

ちなみに、こういうことを僕は高校時代にも部活の一貫として発行していたビラみたいな新聞で書いていたのだけれど、その当時だけでなく現在もだと思うが、すぐに安易な反論が出てくる。つまり、凡人がやることを叩き潰すと、彼らは無能なので、あとはヤクザか犯罪者になるしかなくなる。凡人のささやかなインチキくらいは許容したほうがいいという話だ。上岡龍太郎のような人物も、テレビ番組で似たようなこと(いわく、芸能や風俗や競輪・競馬、そして野球やサッカーのようなスポーツなどが仕事としてなければ、われわれはヤクザや犯罪者になるしかない)を話していたのを覚えている。僕の議論は、そういう人々にとっては broken windows theory の一種を語っているかのように思えるのだろう。そして、いま現に僕は社会政策や社会科学の理論というものは大多数を占める凡庸な人々を想定しなくては実効性もないし、それどころか理論としても正しくないと主張しているので、なおさら凡庸な人々のやることを是非の基準にしているかのように誤解されやすい。

だが、僕が僕も含めた凡庸な人々を社会や組織や集団の典型的なアクターとして想定するべきだと言っているのは、そうやって想定して作り上げた理論や社会政策が「良い」からなのではないし、そういう前提で作り上げた理論や政策によって世の中が「改善」されると期待するからではない。これは、議論の出発点、つまりは初手を正確に理解するべきだから言っているだけのことであって、凡人の凡庸な社会を正確に描き出して理解すれば社会科学として完結するなどと思ってはいない。そこから、どのような条件で啓発なり教育あるいは刑罰という色々な手段を使って、どういう社会を目指すべきなのかという次の議論が始まるだけのことだ。社会科学という分野は、人の集団がやることを記述し理解するだけでは不十分なのであって、そこには何らかの見通しなり期待なり理想をもって提案される normative な内容が含まれる。ここが、人文系の学問や自然科学と異なる点だろう(意外かもしれないが、人文系の学問は社会科学のような是非は議論しない。「美とは何か」という議論は、美が何であるべきかという議論ではなく、つまりどういう条件の誰にとって美が有益なのかという議論ではないのだ)。

ということなので、僕は凡人を基準にして社会を理解することが望ましいと言っているが、それは何も凡人のやっていることを安っぽい人間讃歌よろしく礼賛しろと言っているわけではない。凡庸な人々は社会を理解するための基本だが、僕が希望しているのはそれら凡庸な人々が総じて向上するような制度や伝統であって、そこでは日本などというケチなスケールでものを考えてはいけないからこそ、人類史のスケールで共有するべき知恵を守る保守思想が必要なのである。したがって、上記のようなことをやって、せっせと小遣い稼ぎしているような無能や凡人どもを広告の世界から叩き出すことは、彼らのような人々が現実にネットだろうと地方にだろうとたくさんいることを分かっていればこそ、将来の広告なり広告業のためには必要なことなのである。そして、もちろん僕はこういう悪事をはたらく人間をあらゆる産業から叩き出したくらいで、彼らがそんな簡単にヤクザになる・なれるとは思っていないし、犯罪に走る人間がいるなら、その対処はまったく簡単なことであって、捕まえて刑罰を科すなり社会から隔離あるいは抹殺すればいいだけのことであろう。犯罪あるいは不適切な行いをやっている人間が悪事を働けなくなる規制を加えた結果、そこから更に具体的な犯罪へ手を染めるというのだから、同情の余地はなかろう。

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