Scribble at 2020-05-07 15:04:59 Last modified: 2020-05-13 16:35:23

久しぶりに出社して、午前中の仕事を終えて帰宅する途中にジュンク堂書店の大阪本店へ立ち寄った。父親に買って渡している『将棋世界』という雑誌の最新号を買うのが目的である。書店に入るのも久しぶりだし、いまジュンク堂は天満橋店が閉まっているため、出社したときに大阪本店へ立ち寄るのが良い機会だから、ついでに2階の文庫本や学参のコーナーだけ急いで見て回ってきた。

まず学参のコーナーへ行くのは、僕は定期的に高校レベルの数学を復習しなおしていて、その時々で売っている薄い問題集を使ってきたという習慣があるからだ。知識を更新するという実質的に有益な効果を期待するのであれば、たぶん数学よりも地学や生物学や地理などを勉強する方がいいとは思うが(数学は50年前の問題集でも通用する普遍性があるけれど、逆に言えば知識をアップデートする必要がない。余弦定理の適用範囲は、あくまでも高校数学の範囲でという条件付きだが、統語論的にも意味論的にも知識を更新する必要がない。それに対して、どこでどう使うかというプラグマティクスは夥しい事例がどんどん積み重なっていくわけだが)、それらの科目には小さな設問をどんどん解いていくという、こう言うと語弊はあるかもしれないが《アグレッシヴ》な魅力がない。バカみたいに単純な問題を膨大に解いていくというのが僕の好きなスタイルで、これはアルバイトでも資料のコピーとかパンの包装とか機械部品の加工といった経歴に表れているとおり、単調で機械的な作業を好む性格にもよるのだろう。

で、高校数学の棚を見ようと思って足を進めると、予想外に人がいて入る余地がない。しかも、全員が僕のような中年男性だった。おそらく学校や塾や予備校の教員なのかもしれないし、子供に買って帰る約束をした親なのかもしれないが、とにかくオッサンばっかりの混雑した棚に割って入る気はないので、すぐに取って返した。目当ての雑誌を手に取り、あとは文庫の棚を新刊だけ眺めてきた。それにしても、もう伊坂幸太郎作品は読むのをやめてから随分と作品が追加されているものだ。自宅に未読の文庫本が3冊ほどあるが、それ以降に出た文庫本だけでも5冊くらいあるのではなかろうか。『夜の国のクーパー』を読み始めて、それまでは魅力的だった会話の応酬が、急に面倒臭くて読み辛いと感じるようになってしまって、彼の作品を読む気がなくなってしまったのだった。まぁ、その話はいい。ともあれ文庫本の新刊にはロクなものがなかったということだけ書いておこう。というか、日本の出版社って西田幾多郎が好きだよね。「日本人」だからなのかな。([2020-05-13] さきほどジュンク堂で見つけたのだが、黒崎宏さんも西田幾多郎について本を出している。しかも、副題にハイデガーの名前まで出しているというありさまだ。この様子だと、黒崎さんも分析哲学プロパーのありがちなパターンとして、そのうち禅についても語りだすのではないか。)

それから精算するために並んでいると、主に新刊書を面陳列で並べる低い棚には新型コロナウイルスに関連した本が色々と置いてあるのだが、既刊の本を改めて参考に並べるのはともかく、新刊書はどれもこれも下らないの一言だ。大袈裟で、通俗週刊誌の三文記事と変わらないような単純かつ根拠のない思い込みが、生半可な医学用語やポモ系の言葉遣い、あるいは4周遅れくらいの左翼用語で書き殴られているように思える。ていうか、翻訳のタイトルらしいが、いい歳をした大人が書いた本に「僕ら」はないだろう。いや、僕も一人称は「僕」を使うのだが、「僕ら」はニュアンスが違う。まるで民青の学生サークルのちらしみたいな、あけすけで厚かましく、巨大な半紙に「善意」と大書きされた文章を見せられているようで、こっちが恥ずかしい。2000年代前半の電通系のコピーライターのセンスだ。(博報堂系だと「わたしたち」とか、これまた都内の軟弱学生みたいにナヨナヨした日本語を使うのが定番だ。)

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