Scribble at 2025-03-05 16:40:34 Last modified: 2025-03-05 16:53:24

まぁ、潜在的にいまのような状況になりえる、もしくは一部では昔からずっとこういう風潮があったとすら言える国で、或る意味ではぬくぬくと育った「科学哲学」なり「分析哲学」と呼ばれる、おめでたい思潮にも一定の価値があると思う。それは確かなのだが、やはり田舎の元弁護士が副大統領などと称して一国の大統領を報道番組でこきおろすなどという傲慢がまかりとおるようでは、あの国の人文・社会科学なんて無意味なエリートのお喋りに過ぎないという気もする。そもそも、ナオミ・クラインのような単なる左翼の物書きをありがたがって思想家などと仰ぎ見る、岩波書店を初めとする知的密輸業者に社会的なインパクトが欠落しているのも、無理からぬことという気がする。たとえば、僕はありがたく岩波文庫を読んでいるけれど、しかしそういう出版事業が100年近くも続けられてきた結果が何なのかということを、少しは学術研究者のコミュニティとして反省してもいいのではないかという気がする。

とは言っても、僕はこの国に掃いて捨てるほどいる「反米保守」なんかではなく、もちろんアメリカで展開されてきたアグレッシヴな成果の数々に多くを負っている一人として、どうにか有効な成果をもたらしたいとは思って大学で学んできたつもりだ。それはいまでも変わらない。現象学なんていう肉体フェチなんぞに比べたら、まだ科学哲学にはコミットメントに値するところがあると信ずるからだ。そもそも、現象学のようにヒトの認知能力を基準に哲学するという根本的なナルシシズムに哲学を名乗る資格はないと思う(僕は恩師の竹尾治一郎先生に「君のアプローチは認識論に偏りすぎている」と叱られることが多かったが、僕の認識論はヒトだけに限った話題ではない)。知性がなんであるかはともかく、知性ある存在であれば、ヒトであろうとハシビロコウであろうと為しうることとして哲学を想定すべきであろうと思うからだ(僕はよく、日本のプロパーは哲学を学んだり通俗本を売る相手として東大生しか想定していないが、ヤクザや日雇い労働者やテロリストに読んでもらうことを想定してはどうかと言うことが多いのは、こういう理由もある。ちなみに、ヤクザが哲学書を読まない人たちだと言っているわけではない。そういう関心をもつ状況にない誰かを説得するほどの力があるかどうかという話をしているのだ)。よって、いまさら科学哲学の真似事をしてサイボーグがやる哲学だの AI の哲学推論だのと言ってるような周回遅れの連中に何事かを学ぶ余地などない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


共有ボタンは廃止しました。