Scribble at 2024-03-05 09:44:13 Last modified: 2024-03-05 09:50:17
考古学の勉強を久しぶりに再開すると、たとえば古墳時代と呼ばれる4世紀から7世紀ごろまで続いた時代に数多く生産された道具である「須恵器」という焼き物の分類とか編年分析が、あまり指標のはっきりしない見た目だけの類似とか特徴に依存していることがわかる。これを、半世紀近くの蓄積がある文化進化の考え方で捉え直すことはできるだろうが、そのまえにやっておかないといけないのは、もちろん「文化進化」というアイデアの妥当性を見積もることだ。
文化進化のアイデアを擁護する人々は、たとえば生物の進化と文化の進化は異なるという反論に対して、その反論は、生物の進化は系統樹のように枝分かれするのに対して、文化の進化はシュレーディンガー方程式と行列力学などのように一つの理論として収斂することがあるという対比に基づいており、これは生物の進化がウイルスを媒介として融合することもあり、そして文化の進化でも数多くの分岐(音楽のジャンルとか)があるという点を無視していると答える。
でも、初めて文化にも「進化」というアイデアを適用できると思いついた当時の人々は、やはり生物の進化とはこれこれでありという古い理解をもっていたのであるから、いまになって、実は生物の進化にも融合というプロセスがあるから文化の進化に似ていると言えるなどと反論しても、それは経営学などと同じレベルの結果論にすぎない。よって、やはり(三中さんには気の毒だが)系統樹のような視覚的なモデルへの適合という基準で概念や理論の適用範囲を見積もったり期待したり、あるいは正しく理解しているかどうかの判断指標にするというのは、僕には危険なことだとしか思えない。僕が、このサイトで何度も未熟な著者やデザイナーのイラストや図表で哲学の概念や議論を描くのは危険であると警告しているのは、こういう事例にも当てはまる。進化の仕組みや実態が或る図として描かれた様子に似ているかどうかなんてことは、進化論や進化の概念を使ったモデルを議論するうえではどうでもよいことだ。そういう「お絵描き主義」というか、視覚イメージがコンセプトを十全かつ的確に表現したり伝達できるという錯覚を、僕は敬意(と嘲笑)をもって「センチメンタリズム」と呼びたい。