Scribble at 2024-03-04 09:49:29 Last modified: unmodified

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現代では多くの文脈で、「すべてを手に入れる」とは、キャリアを維持しながら結婚して子どもを産むことを指す。しかし「すべて」の定義は自分で決めてよいのではないか。「私らしく生きる」ことが「すべてを手に入れる」ことと同義であってもよいのではないか。

「子持ち女性vs子どもがいない女性の"溝"」は近年、意図的に作られたものだった…産まなかった女性の役割とは

まぁ、最後に「連帯」とか書いてるけど無理だと思うね。この「『すべて』は自分で定義してもいいのだ」というメッセージに従うなら、勝手に個人が好き好きで子供を産む産まないと決められるのだから、それこそまったく同じ理由によって、他人の子供を育てることに連帯するもしないも自由だという話になり、そして実際に多くの女性は他人の子供を育てるなんて選択はしていないからだ。彼女らの理屈に従う限り、そういう「連帯しない自由」を選んでいる多くの女性を非難することはできない。

個々の家庭なり、とりわけ女性にしてみれば、自分自身の個人としての選択によって「人類」、いやそこまでスケールが大きくならなくても、「家系」が断絶するなんてことに責任を負わされるということが、一つの文化的な脅迫と言ってもいいわけである。仮に、全ての女性が「産まない」という選択をした結果として(個々の女性にはそうする権利があろうから、その集積として子孫が一人もいないという状況になっても誰を責められようか)、人類が人口減少によって種として衰退することへの危機感を覚えるなら、人類に選択できるのは公的な人工授精と養育しかない。個人としては、産むのも育てるのも選ばないということなので、他に採れる手段は公的な施策しかあるまい。だが、それも結局は民主的な手続きでやるやらないと決めるのであるから、そういう施策を起案したり実施することに大多数の同意が集まらなければ、人類というのは死滅する他にないというわけである。

僕は、敢えて「哲学者として」という前置きから言わせてもらうが、そうであっても個々の女性の選択を支持する。そして、これは「保守」を名乗っている人間としてすら支持する。なぜなら、保守思想というのは、別に人類という種の保存や発展を意味しているわけではないからだ。個人は「種」のために生きているわけではない。寧ろ僕は保守の人間であり哲学者であるからこそ言いたいが、人は概念や観念のために生きたり死んではいけないのである。そして、どのみち数十年後には死んでしまうのだから、その後に何百年だか何億年だかが経過して人類という種が途絶えてしまおうと、そんなのは死ぬ人にとって知ったことではないだろう。

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