Scribble at 2017-03-21 14:41:37 Last modified: 2022-09-20 09:45:59

足立巻一『やちまた』([1974] 2015)

大著ともなると、どうしても「面白かった」「凄かった」という、どう考えても読んでないだろうと言いたくなるような雑感しか書いていない書評記事が出てくるのが WWW ではあるが(ちなみに若い世代は知らない恐れがあるので注記しておくが、これは「ワールドワイド・ウェブ(the world-wide web)」のことであって、草を生やしているわけではない。いや、最近の若者だと「草を生やす」という俗語も知らないのか)、たまにはこの記事のように筆者なりの知見によって論評・紹介されている記事もある。

ただし、筆者は本居春庭や足立巻一に特別な関心があるわけでもないようなので、足立さんの他の著作を読めばすぐに分かるようなことが推測として書かれている(『やちまた』に登場する教員の多くが実在の人物であることは、『やちまた』で描かれたとおりの人物であったかどうかはともかくとして、足立さんの他の著作を読めば分かる)ので、推測と疑念の区別がつかない人には注意が必要なところだろう。

また、『やちまた』には三通りの読み方ができるという(一定の教養があれば別に新規でもオリジナルでもないことだが)指摘を書いている箇所で「厳密には国学のいちジャンルであるとも言えるが、仮に国学の側面を{文献学,言語学,思想史}の3ジャンルに大別できるとして」と仮定するのだけれど、「国学」の研究系統なり副次的な分野としてそれら三つを「取り上げる」というならともかく、国学をそれらに「分割できる」というのは誤解を与える。また、何が「国学のいちジャンル」であるかを書かずに、「国学の側面を [...] 大別できる」などと書かれては、読む方は混乱するだけである。A が厳密に国学の一つのジャンルに分類できると言いながら、国学を三つに分類できると仮定した場合の話をされても、筆者は厳密な話をしたいのか、それとも主観的な仮説の話をしたいのかが分からない。タイトルに「国語」と書いているだけなので分かりにくいが、恐らく「国学」の後に「国語」と並列したからこそ、厳密には国学に含まれる一つのジャンルなのだろうけれど、国学と並列したという意味合いで書いているのだとは思う。しかしそれなら、最初から{(登場する人々の)人物史、国語学史、(足立さんの)個人史}などと分類すれば誤解の余地は減るだろう。内容や自身の意見に即した分類をせずに、「国学」とか「国語」といった分かりやすいフレーズを「並べる」という図式的な字面の美しさや「並んでいる」という見栄えの均衡の心地よさに引きずられた文章だと思う。(同じような意味で、僕は京極夏彦が版下の改行位置まで自分でコントロールしているという逸話を知った時に、もちろんプレゼンテーションとしては適切なことだろうと思うのだが、それと同時に見た目で読み手にどう印象付けるかという図案的な自意識の観点が強すぎると、文章そのものが見た目の印象という基準に引きずられるのではないかとも感じた。僕が京極さんの文章にイマイチ文学作品としての魅力を感じないのは、それが理由なのかもしれない)。

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