Scribble at 2026-08-08 12:54:29 Last modified: 2026-08-08 13:10:29
この記事は、AI 時代における知識労働者の深い虚無感と、Workism(仕事を人生の中心に置く信仰)の崩壊を描いている。AI が仕事の本質をさらに抽象化し、知的労働の意味が揺らぐことで、多くの人が「自分のキャリアに価値はあるのか?」という存在的な不安に陥っているという主張だ。正直なところ、僕は仕事や業務を自分のアイデンティティの一部であるとすら思っていないので、こういう人生観には強い違和感を覚えるのだけれど、仕事に誇りをもつといった気概には一定の配慮とか尊敬の念はある。バカにしたり軽視するつもりはない。でも、僕とは関係のないメンタリティであることに変わりはないのである。たとえば情報セキュリティのマネージャだとか、ウェブ・サーバのエンジニアだとか、デザイナーであるとか、そんなの僕の単なる経歴にすぎず、職務経歴書で僕が分かると思うような人は才能というものを分かっていないと思う。しかも僕自身が、これらの仕事を自分の才能から言えば瑣事に分類できるていどの能力しか使わずに遂行していたり成果を成し遂げているという自覚があるのだから、こんな些末なことで評価されたりさなかったりするのは心外である。
さて、この記事の著者は通勤電車で、財務指標を延々と語る若いビジネスマンが編み物を取り出して誇らしげに語る姿を見たという。そして、「人は何か実感のあることを求めている」と気づいたらしい。そして、この著者が調べたところでは、多くの知識労働者が、陶芸・絵画・編み物などアナログな趣味を始めたり、「消えたい」だとか「農場で暮らしたい」といった逃避願望を語り始めているという。よくある、上場企業の雑魚社員が退職金をもらってド田舎でクラウド・ワーカーを始めたり、「自然の中で子供を育てたい」などと銀行員が田舎に別荘を買ったりするという、よくある中途半端な金持ちの話だ。中小零細企業の大半のサラリーマンは5万円ていどの退職金すら出ないし、田舎に別荘なんて買う余裕などない。要するに、この記事が「ナレッジ・ワーカー(知識労働者)」と呼んでいるのは、簡単に言えば都市圏の大企業や上場企業の金持ちホワイトカラーだ。もちろん、こういう人々が生活に困ったり精神を病んでくると、どのみちそのしわ寄せは僕らのような下請け企業や中小零細企業に押し寄せるのだから、馬鹿や無能でも気軽に働いてくれている方がいい。僕が、いわゆる育児休暇・介護休暇とかワーク・ライフ・バランスとかダイバーシティとか SDGs のようなお題目を大企業が掲げつつ社員の福利厚生を整備することに賛同するのは、上流工程の人々が自足的なやりかたで(つまり下請けを搾取する仕方ではなく、自分たちの理屈や財源だけで)気楽に生きていてもらう方が世の中は安泰だからである。
ただ、こんなことは30年前でも言えたし議論できたことであって、別に AI は関係ないだろうと思う。なので、記事を追っていくと、やれ Workism は仕事が人生の意味や共同体を与えてくれるという考え方だが、金融・コンサル・テックなどの仕事は社会的な意味や利他性が乏しいと感じられているらしく、そういう業界で働く多くの人たちが、自分の仕事は本当に意味があるのかと疑い始めているという・・・いやぁ・・・そんなこと AI が普及する前からある話だよね。要するに、お金あるいは数字だけを動かしてる「虚業」には人の役に立っている実感がないという話だろう。こんなの、NHK のドラマとかで頻繁にテーマになってきた体育会系やスポ根サラリーマン、あるいは証券会社を辞めて福祉事業所やホームレス援助の NPO に転職するみたいな脳筋左翼の議論じゃないか。
なので、この著者が展開している議論というのは、社会科学としても社会思想としても相当な周回遅れのように思える。やれ、現代は直接経験ではなく、媒介された表象が生活を支配する社会だとか、忙しく見えることや重要そうな仕事をしているかのように振る舞うことが価値になってしまうので、そういう茶番に疲弊すると長野や愛媛の山奥で週末だけ開店するパン屋でもやりたくなるというわけだ。しかし、こんな21世紀も始まって四半世紀が経過した時点ですら、これほどナイーブな議論が通用する牧歌的な社会やメディアこそ、その存続が問われてよいのではないか。