Scribble at 2026-07-31 19:00:09 Last modified: 2026-07-31 19:10:30
# Nano Banana
森達也氏の『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(講談社文庫、2018)の208ページにこういう一節がある。
「海外のメディア関係者が来日して日本の夕方のニュースを見たとき、誰もがまず、『なぜ報道番組で行列のできるラーメン屋や回転寿司店のランクなどを放送するのだ』とびっくりする。」
この一節で森氏は、昨今の報道機関が番組内容を足し算によって構成していると指摘している。もちろん、そのことが良く分かる事例は後の方で紹介されているのだが(「ドキュメンタリー」と称して、収録してきた映像をスタジオで眺めて馬鹿げたコメントを発する、まともな業績がない「文化人」や使い古しの歌手や俳優、あるいは雛壇芸人たちのギャラの方が取材費よりも多いといったこと)、上で引用した事例では足し算とか引き算の喩えがどこに当てはまるのか分かりにくい。なので、趣旨からすれば不適切な議論をしているように思うのだが、この一節の主旨(つまり、ここで指摘していること自体)は僕も同感だ。
僕もつねづね自宅でニューズを観ているときに、やたらと地方の祭りだとか海開きだという瑣事を取り上げることに辟易している。どこでなんの行事があろうと知ったことか。そんなものは勝手にやればよいし、そこに興味がある人や、そこが自分の故郷であるような人なら、最初から祭りが開催される日時なんて調べて知っているはずだし、知っていなければ当人たちの過ちでしかない。どうして報道機関が助けたり通知しようと思うのか。そもそも、そんなことをやったところで視聴率が上がるはずもないだろう。もっと政治や行政など、公共の利益や public affairs について報道すべきことと取材するべきことがあるはずだろう。
そして、これを Gemini などへ入力すると、AI ごときですら「日本と西洋の報道の違いとして、日本では地域社会の連帯感や、季節ごとの生活の潤いが、公共の利益の一部とみなされる傾向があります。例えば、地方の祭りは単なる娯楽ではなく、地域の防災組織や、コミュニティの紐帯を維持するための重要なイベントです。一方、西洋では、報道の焦点はしばしば、政治家や企業の不正を監視する『番犬』としての役割に置かれます。この違いは、どちらが正しいというものではなく、それぞれの社会が公共の利益をどのように定義し、どのような価値を重視しているかの違いです。」などと、自意識過剰なインチキ相対主義や軟弱多元主義を口にする始末だ。それでいったい、きみらは誰に好かれたいのか。番犬としての報道機関の役割を相対化して、それが必ずしも正しいとは限らないなんていう印象をユーザに与えたら、トランプ政権について報道するメディアのやっていることが正しいとは限らないという印象を与えられるからなのか?
マス・メディアが私企業として組織の存続や活況を目指すという理屈は分かる。自由経済の国においては、原則としてどのような事業を営んで失敗しても公的な助けは受けられない。バカな商品を開発したり、愚かな経営をやって、原価や人件費だけが膨らんだり、あるいは社員がいなくなったとして、国や自治体が市場の代わりに商品を買ってくれるわけでもあるまいし、その会社へ入りたいという求職志望者を集めてくれるわけでもないのである。報道機関も同じであって、本来ならフジテレビは中居くんの一件でコマーシャルへの出稿が全て停止されたときに、債務超過かキャッシュフローの悪化で経営破綻しても良かったわけである。残念ながら、日本の企業の多くは株の持ち合いだとか巨大な内部留保などの防御策があるため、とりわけ歴史のある上場企業として銀行系列のグループに加わっていたりすると、なかなか倒産しないものだ。
こうなると、起業したばかりの頃のメディア企業というのは、主な買い手である新聞の購読者やテレビの視聴者のニーズを尊重してコンテンツを制作していたのかもしれないが、やがて株主と広告スポンサーの意向しか気にしなくなって、逆に自分たちこそが新聞の購読者やテレビの視聴者を調べずに、自分たちが「そうあれかし」から「そうあるべし」と思弁しただけの「世論」を仮定し、ましてやその仮定しただけの世論を制御したり操作しておればよいという立場にあるという錯覚が生じてくる。しかるに、誰が望んでいるのかもわからない歳時記的なイベントの取材を「報道」であると思い込むような業務上の習慣が何十年にもわたって社内で共有されたり継承され、彼ら報道スタッフにとっての常識と化していくわけである。
そして、それを再考したり検証したり吟味したり批判する人は少なく、いたとしても特別なポジションに祭り上げられる。たとえば本多勝一氏のような人々だ。そして困ったことに、こういう「例外的な人々」というのは、イデオロギーに関わる論点として一部の思潮に反対したり疑問をもっているだけなので、もっと巨大な欠陥や歪みや偏見などについて一般の人々の焦点を外す役割を担わされてしまう。つまり朝日新聞の主流と本多氏のような例外的な人物とのあいだだけで、あたかも思想的なバランスのようなものが捏造されてしまうわけである。でも、他にいくらでも彼らとは違う論点や評価基準や価値観があるはずなのだ。そして、マス・メディアはそういうものを提示するのが役割のはずなのだが、どこの国でもマネタイズの構造やビジネス・メソッドが画一的になると、やがてメディアとして取り組む姿勢なども画一的になってしまい、イデオロギーとしてどれほど右や左などへ傾いていようと、そういう意味での短絡や画一化が進んでしまう。だから、フジテレビのニューズ番組であろうと TBS のニューズ番組であろうと、どうでもいいクソ田舎、いや都内でも大阪市内でも京都市内でもいいが、どこかの祭りが何月何日なのかという瑣事を報道するのである。