Scribble at 2026-06-22 16:18:25 Last modified: unmodified

このところ AI-fobia に類する話題が散見される。さきごろも短編小説を扱うイギリスの文学賞で、受賞作の6割が生成 AI を利用しているとの疑いをかけられて、作品を掲載してきたマガジンが掲載を中止するという騒ぎになっている。

生成 AI の利用については、もともと学習データの収集にかかわる著作権関連の問題があって非難する人がたくさんいるし、それはそれで当然だろうと思うのだが(ただし SNS だけで声が大きい取り巻きの「正義マン」はどうでもいい)、それ以外にもハルシネーションによる間違いが色々な問題を引き起こすし、フェイク動画による風評被害や名誉棄損や公職選挙法違反などもホットな話題だ。そして、それだけではなく、そもそも生成 AI を使って何かをすること自体についての、常識的あるいは生理的な「毛嫌い」というものがあって、これもこれで単なる情緒の問題だけでは済まされないところがある。

実際、生成 AI を使うこと自体が「手抜き」や「怠慢」であると考える人は多い。いや、もっと正確に言えば、同じ人物でも立場や状況によって生成 AI への態度や評価が変わったりするのだ。それが、もとより凡人の本性とか業とか性癖というものだからだ。皮肉なことを言えば、凡庸な人間には一貫性のなさという点での一貫性があるのだ。つまり、体系的な全体最適の整合性などは学者や金持ちだけが気にしておればよいことであり、自分たちが凡人であると自覚しているならなおさら、そういう高尚だが「地に足のついていない」体系性や一貫性などという価値観は歯牙にもかけないということだ。A と B を矛盾なく許容したり維持して、それで給料がいくら上がるのか。都内に新築マンションが買えるのか、というわけだ。実は、体系的で一貫性のある考え方や行動をすれば、それが実現する可能性だってあるのだが、そういうことが見えないか見ようとしないことこそ、凡庸で無教養な人間の純朴で慎ましい愚かさという特権なのである。

ツールあるいは自動化についての毛嫌いという傾向は、たとえば19世紀から20世紀にかけて普及したタイプライターについての反応でも例証できる。その一つとして知られているのは、ハイデガーがタイプライターによる文書作成を批判したという事例だ。一見するとハイデガーの手書きを重視する意見は頑迷な時代遅れの批判に思えるが、もちろん僕のような21世紀のエンジニアであっても、タイプライターとタイプライターの影響も受けて進展したパソコンの IME などという欠陥ソフトウェアを批判している立場からすれあ、簡単には切り捨てられない。だが、僕はたまたま哲学者でもあるからして、ハイデガーの手書き尊重というスタンスには、手の動きが脳の動きや脳で起きる認知プロセスと何らかの必然的で神秘的な関係を本質的にもつという、およそ認知科学や言語学では支持できない「指示の魔術説」が含まれていると言わざるをえない。もちろん、そのような立場を認めると、生まれつき両腕がない人物には文章を作成できないという傲慢な主張をすることになるからでもある。(僕は偽善者なので、こういう道徳・福祉系の突っ込みも得意なのだ。)

したがって、一概にどちらが正しいとは言えないのは確かだが、それはハイデガーや、あるいはテクノロジー批判をすればマウントできると思っている都内の未熟な物書き左翼どもが正しいからでもなければ、都内や西海岸にウジ虫と同じくらいいる、生産性マンセーのテクノ・プロレタリア・キッズが正しいからでもない。哲学者であるわれわれに言わせれば、おまえたちは特定の有名人の発言やプロダクトについて抱いている自分の好みや習慣を価値観の話と取り違えているだけだ。存在者として存在について関わろうとするにあたっての、不十分ではあれ何かを用いなくては関わりようがない身体的な部位というものを考えるなら、それこそ現象学者が好む手や足やチンコなんかではなく、「脳」であろう。

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