2018年12月21日に初出の投稿

Last modified: 2018-12-24

一部の人々、山形浩生さんとか Max Roser のような人たちは、この世界に住んでいる我々(それこそウェブサイトをコーヒー片手にパソコンで眺める暮らしができている人々から、明日の食料すら足りないという人々に至るまで)の暮らしが徐々に向上していると分析し、解説している。恐らく、僕もそれには同意できるだけの情報をもっている。生存そのものが大きな課題であるアフリカやアジアや中南米の国々ですら、大規模な伝染病や飢餓でいちどに大量の人々が死ぬという状況は、年を追うごとに頻度が少なくなってきている。そういう状況が少しでも見つかれば、とかく「報道」しては騒ぎ、可愛そうで涙が出てくるだの○○は何をしているのかだのと、気楽なコメントを書きたくて仕方の無い(反吐が出るほど善良な)人々がネットを徘徊しているから、そういう騒ぎが少なくなっている様子がうかがえるのは、恐らく実際に多くの伝染病が撲滅に向かっていたり、深刻な栄養不足が多くの国で改善されつるあるのだろう。

しかし、社会制度や人々の知性が脆弱になる一方のように思えたり、マスコミやネットのおかげでロクでもない行動をとる人間が一斉に増えたりいなくなったりするのも、よく目に付く話だ。日本史の教科書に出てくる文化史の話題などというものは、しょせん為政者のいた地域を中心として流行していただけのことであり、地方へ広がるにしても相当な時間や手間がかかったと思ってよい。なぜなら、貨幣や法など支配のための制度とは違って、しょせん文化などというものは人の考え方や暮らしを根本から即座に変える力などないのであり、変わるだけの余裕がある人から徐々に変わるしかないからである。そして、皮肉なことに新しい文化に刺激されて考え方や生き方が変わる人々というのは、いまでも「アーリーアダプタ」と呼ばれる連中がそうであるように、別に知性や学芸のセンスや教養があるからこそ新しい技術や文化を受け入れる余地があるのではなく、寧ろあらかじめ持っている知識や教養がないからこそ、新しいものへいくらでも飛びつけた人々も多いのである。

しかし、そういう暇人が全国に数多くいるのだから、昔なら近隣にしか影響力を及ぼせなかったものが、今日ではメディアによって多くの「対象者」へと一斉にナウいヤングのイケてる文化が伝われば、大昔よりも普及するのが早くなるのは道理というものだ。しかし、人々の暮らしぶりが改善したり向上するための知識や技術というものは、おおよそ海外から同じように一斉に(グローバリズムと称する大義名分によって)広まって普及したものが元になっている。インターネットなどはその最たるものであり、慶応でどのようなことが後からささやかれていようと、しょせんは国内で達成できたことなど大した事績ではない。

つまり、われわれの生活が良くなっているとすれば、それは物質や技術については海外の業績のおかげであり、国内の思想や制度については殆ど何も向上していないのではないかと思える。僕が気になっているのは、このギャップだ。もちろん、文化においてはあれこれと言えるのだろうが(そして、本当に賞賛すべきだと信じているのかどうかも怪しいが、とりあえずそれを「ジャパニズム」と称して税金を使って宣伝しまくってる連中はいるわけだ)、少なくとも社会制度や生き方についての理屈なり道義について、われわれは何を今日では達成したり、自らの手で獲得できたと言えるのだろうか。ここで即座に注釈しておかないといけないのは、こういう問いかけをするのは、多くの場合は保守反動思想の人々だったということであるが、まさに僕はこれまでさんざんと同じ問いを発してきておきながら、殆ど思想として何のインパクトも与えられなかった、彼ら(敢えて言うが)無能な保守反動の物書きたちにこそ苦言を呈したい。君らはしょせん無知無教養な自民党政治家のタカ派や街宣右翼に尊ばれて終わるだけの小物にすぎない。

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