Scribble at 2026-08-16 13:20:25 Last modified: 2026-08-16 13:20:53

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2015年にディープ・ラーニングの学習ライブラリとして知られる Karas を開発した Francois Chollet(元 Google のシニア・エンジニアであり、現在は自ら起業している)が書いた Deep Learning with Python (2nd edn., 2021、現在は第3版が出ている)を読んでいる。非常にクリアで読みやすい英語なので、たぶん高校生なら頑張って読めると思うから、アマゾンなどで安く手に入れることをお勧めする。原理原則を議論しているので、決して内容が古くなっているわけではない。

そして、この本の冒頭でショレが書いているように、現今の機械学習理論や AI についてヒトの脳や神経細胞ネットワークや数理モデルとの関連性を議論することは、はっきり言って生産性がなく、無意味である。確かに、ヒトの脳神経系を模倣するというアイデアから人工知能の研究がスタートして、そこから機械学習の理論が発達してきたという出自や経緯はあるにせよ、既に機械学習の理論はヒトの脳神経系との類似性に拘泥する研究者は殆どおらず、したがって自分たちの研究成果が「知能」と何らかの関りがあるかどうかすら頓着していない。寧ろ、そのような制約条件をつけること自体が数理的にはナンセンスとすら言ってよいと感じている人が多いであろう。

そして、科学哲学者としての僕も、そのデータ収集や学習プロセス、それから実用化については幾つかの規制が必要だとは思うが、原則として現行のコンピュータ・サイエンスの研究者と同じ考えだ。したがって、ChatGPT についての「心の哲学」などありえないというのが僕の哲学者としての正式見解である。理由の一つは、もちろん僕自身の哲学についての考え方にあり、哲学という営為はヒトがやることであるにもかかわらず、ヒトという制約を可能な限り「括弧に入れる」なり捨象するなりして行うべきだと思うからだ。したがって、心の哲学がそもそも「ヒト」だけを対象にしていることにも強い疑問がある。植物の心の哲学がありえるなら、それらも考慮したうえで、初めてヒトの心について哲学できるわけであって、単に研究や考察の出発点が自分自身なり自分たちヒトの心についての理解や観念にあるからといって、その中で自足できる根拠などないはずだというのが、僕の考える哲学的な思考というものである。したがって、おおよそ気づかれるように、僕の考え方のフレームは経験主義と相性がいいし、昨今の流行であるフランス流の「有限主義」とも相性がいいわけだ。

というわけなのだが、口先で「哲学好き」を自称するアマチュアや素人、それどころかプロパーですら、AI とヒトの知性や認知能力とを関連付けて論じたり考えるアナロジーや短絡が「哲学」なのだと思い込んでいたりするから、困ったものである。こういうことは、実際に研究している人々の考えていることや、彼らの成果を実際に読んだり調査することによってのみ分かるような事実の問題にすぎないのであって、生成 AI の研究がヒトの知性の研究「であるべきだ」などと宣言するだけで、「哲学」と名乗るインチキ芝居が正当化されるものではないのだ。

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