Scribble at 2026-09-27 09:26:07 Last modified: 2026-09-27 09:29:22
「現代の文学や批評はいまや社会における高らかな意義を喪失してしまっており云々」という定番の議論の発信者として無能な社会科学者や文芸評論家に祭り上げられることが多い柄谷行人だけど、僕に言わせれば彼自身が世の中に対する自分の価値やプレゼンテーションという自意識でものを書いてるという印象があるんだよね。
岩波文化人の多くに当てはまるんだけど、文体から異臭のようなものが漂ってくるわけ。本を出版してもらって当たり前の社会階層に俺たちはいるんだ、みたいな態度が文体からありありと見て取れるわけじゃん。若者が彼らの評論を全く(哲学の学生ですら)読まないのは、なんだかんだ言っても Z 世代の臭覚みたいなものが働いてるからだと思うよ。ただ、そこから離れて辿り着くのが岸君や「お勉強」野郎や小平市の英雄たちが書いてる軟弱なエッセイやシニカルなだけの私小説や哲学評論だというのでは、ちょっとどうなんだろうと思うけどね。
なので、大昔の文学者や文芸評論家が社会や世の中に正義や道徳を示す責任を担っていたという自意識なり妄想がウソだったと言ってみても、それは同じく柄谷ら岩波=朝日系の文化人や物書きにも当てはまることなんだよね。でも、彼らはそれは指摘しようとしないし、結局は出版業界や文化政策とのかかわりで指摘できないんだよ。ただねぇ・・・こういうのが、学生時代にマルクスをやってたんだから、やはり困ったものだと思う。哲学者として言わせてもらうけど、こういう実情を眺めるたびに、社会思想だとか社会科学の理論というものは、実際のところ大してまともな知的影響力なんかないんだろうなと思わされる。