Scribble at 2026-08-22 07:59:37 Last modified: unmodified

どれほど丁寧に作られた良いテキストであっても、それを読むことが相応しいと考えられる読者の手に届く保証はないし、実際に読んで活用してもらう保証もない。これはコミュニケーションというものの一般論としても議論できる原理的な限界があるからだ。それは、その本だとか発信内容を相手が必要としてくれる動機や脈絡や入手方法など、コンテンツの伝達が一方から他方へと完遂するための条件を、発信側がコンテンツを発信するだけで十分に満たす保証がないからだ。そして、コンテンツが伝達されたとしても、相手がそれを単に文字や映像として知覚するだけでは足りないのであって、それを活用するだけの動機や目的をもって手にしていなくてはならないからでもある。或る本を読んで活用できるだけの素養や資格などの条件が備わっている人がいて、なおかつその本を実際に手に取って購入さえしたとしても、本当に読んで活用できる保証などないのである。

何らかの表現なりシグナルによって一方から他方へとコンテンツあるいは意味を伝達するという現実のコミュニケーションは、このようなわけで理想的な状況など成立しないのはもちろん、送り手が期待する最低限の目標すら達せられないことも多い(書き手が表現力のない無能ならなおさらだ)。また同じく、受け手が期待する最低限の目標すら達せられないことも多いわけである(読み手が読解力のない無能ならなおさらだ)。したがって、僕ら現代の英米哲学を専攻しているような人々が標準的な素養として学ぶ、syntax, semantics, pragmatics という三つの分類をしてきた記号の研究というものには、なにか根本的な欠陥があるという印象が強い。ましてや、僕のようにもともと分析哲学よりも先にデリダの著作やエスノメソドロジーの本を読んでいた者にとっては、normative な研究としてはともかく、それが descriptive な研究の成果を下敷きにしていないなら、全くの思弁にすぎないという話になろう。数学のように強力な応用力をもつ思弁であればいいが、果たしてこれら三つの分野がコミュニケーションについて強力な応用力をもって成果を出していると言えるであろうか。

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