Scribble at 2024-01-20 23:07:47 Last modified: 2024-01-20 23:26:32
この前は実質的に扱き下ろしたような文章となったが、確かに圏論の思想書を公刊した著者が述べることにも傾聴するべき内容がある。たとえば、もう既にプロパーとアマチュアとで参照できる文献の量には殆ど違いがなくなっている。それは、正確に言えば「公表される文献の数や量があまりにも膨大であり、プロパーであろうとアマチュアであろうと、およそ研究するにあたって十分な量の文献を読むのは困難である」という意味で、学術研究者であろうとなかろうと量の問題だけで言えば手に負えなくなっている。
したがって、堅実あるいは手堅く成果を上げようと思えば、当然ながらテーマを絞るしかなくなる。しかも絞った文献を正確に理解したり的確に批評するために、再び膨大な文献を読む必要がないという条件も合わせると、これはつまり非常に底の浅いリソースだけで研究成果を上げなくてはならないという状況が求められる。こういう調整をしながら論文を書かない限り、いつまでたっても紀要に落書きを書くことになるか、あるいは論文を書かなくてもいいマスコミ受けのような保身に走ることとなる。ただ、科学哲学という分野で文化芸人となる道は険しい。それは、いまをときめく通俗物書きの諸兄が何冊のくだらない本を出版しようと、ワイドショーのコメンテーターになったりしないのを見れば分かる。かろうじて何年かに1度くらい村上陽一郎氏がテレビに出るくらいだろう(なお、村上氏を文化芸人だと言っているわけではない)。もちろん、哲学の教員という範囲で見ると、萱野稔人氏とか、あるいは昔なら池田晶子氏とか、マスコミ的なステレオタイプというか予定調和的な発言しかしない、タコ焼き屋の横に置いてあるガチャガチャみたいなのが何人かいるのは知ってる。しかし、いずれにしてもそんなことは、アマチュアの立場から(あるいは哲学者として)書いている僕にとってはどうだっていい話である。
ということで、十分なリソースを利用するなどという条件を課してしまうと、いまや研究プロセスの短絡化は避けられず、当たり前だがアマチュアとの差は殆どなくなる。実際、アマチュアでも色々な分野の博士号をもつ人は多くいるし、読書というだけのことなら、外国語秀才である東大の学生は吉野家の店員と同じくらいいるだろう(約8,000人)。すると、次にプロパーとアマチュアとで違いがあるとすれば、必要条件として、どのような文献を最低限でも選ぶかという点で、プロパーには適切な背景知識があるという事実に求められると言いたくなる人はいるだろう。
でも、これは論点先取だと思う。なぜなら、そういう想定は、或るテーマについて論じるときの基本文献や基本書と言えるようなスタンダードな文献のリストをプロパーは持っているが、アマチュアは持っていないという、殆ど根拠のない思い込みを前提にしているからだ。しかし、僕のような博士課程(現在は、博士課程後期課程と言っている場合が多い)に在籍していた人間もアマチュアに含まれるという明白な反証だけではなく、まったくの素人であっても、場合によっては必要なだけの基本的な文献のリストを手にしうる。たとえば、或るテーマについてのアンソロジーなんて簡単に読めるし、Springer などから出ている数千ページのハンドブックや辞典の文献表を使えばいい。結局、多くの素人やアマチュアが適切で基本的な文献を読まずに勝手で未熟な議論をするのは、単に外国語を読んだり勉強せずに、『四国で役人しながら哲学するサバイバル術』とか、『小平の高速道路を守れ』とか、『東大のお勉強について』だっけ、その手のバカみたいな本を読むだけで哲学について語れるという願望を抱く歪んだ動機をもっていたりするからであって、そういうバカをアマチュアの典型みたいに考えるから身も蓋もない話にしかならないわけである。しかし、「哲学の」アマチュアといった自覚や自意識があるかどうかなど関係なく、まともな人間は何を読んでおけばスタンダードな成果が身につくかという、まさに中高生でも身につけているような勉強の姿勢だけでもあれば、そういう基本的な文献に手が届くわけである。
すると、プロパーとアマチュアの違いはどこにあるのか。専任で飯を食ってるなんていう違いだけでないという想定が何らかの理由で妥当だとすると、そこにはかの圏論の思想家が思い描いているように、何をどれだけ読むかという違いではなく、ライプニッツを頂点とする知性の優劣こそが妥当な理由として求められるというわけである。まぁ、ライプニッツは偉いよな、確かに・・・で? というのが僕の感想だったので、先日の落書きに話は戻るわけである。書店で 0.5 秒ほどページを開いたときに感じた違和感を丁寧に展開すると、このような文章になるわけだ。