Scribble at 2020-11-19 13:40:18 Last modified: 2020-11-19 13:45:02

内井さんや門下の伊勢田さんはもっとまともな議論を展開してるが、多くの科学哲学の通俗本では判で押したように、「科学者」という言葉は近代になって現れたものであり云々という語源考証のような話だけが書かれる傾向にあり、せいぜいフランス語の épistémè やドイツ語の Wissenschaft を言葉として持ち出すていどだ。そして、それらが概念としてどういう関係にあるのかを科学史や言語学としてフォロー・アップするようなことはしない。そういう拘りを捨てて軽快に《情報》としての科学哲学を他のホモ・サピエンスに記号で伝達するのが通俗本の本義だからだ。かくして、そこそこ奇妙なサルが「科学哲学の『科学』とはラテン語の scientia に当たり云々・・・」という発話行為をオウムのように繰り返せるようになれば、田舎道路についての民主主義を叫ぶ人や四国の元役人らに都内の出版社からお小遣いがもらえるという寸法である。

もちろん、一部のプロパーが警戒するように、かような文化芸人どもが大学教授となり大手の出版社からでも続々と紙屑やノイズのような電子データをばら撒いている事実は、端的に言って資源の無駄遣いというものであるし、社会科学的なスケールでの影響力には疑問があるけれど(何度も繰り返すが、『ソフィーの世界』を読んだことがきっかけで哲学のプロパーになった人間など、一人もいない。もちろん、恥ずかしくて言えない人がいるのかもしれないが、それを当人が《恥ずかしいこと》と思っている時点で、そういう書物の影響力は時間と共に急激になくなり、社会科学的には過去の些事として片づけられる)、ひとまず現状では威勢の良い連中が他の選択肢を見えなくしてしまうという実害があるとも言える。なんとなれば、何かについて考えたいとか知りたいと思っている人が、古典的な著作を措いて何よりもまず『超訳ニーチェ』やらマズローやら哲学用語の羅列やら元ゲーム作家だシステム・エンジニアだという連中の、情報工学おじさんみたいな下らない蘊蓄の寄せ集めを読むべきだと言いうる正当な根拠などないからだ。しかし、都内のクズ出版社というものは私企業であるからして、口からは称賛に値する出版物を出しておきながら、もう一方のケツから麦茶がどうとかエロアニメおたくの時評とかを出版せざるを得ないので、結局は自分たちの出版物で自分たちの他の出版物を売れなくしているわけである。

なお、先の段落で書いたことに注釈しておくが、『ソフィーの世界』を読んでプロパーになった人間がいるかどうかだけで通俗本の影響力のすべてを計測できるとか、いわんや《成功度》が決まると言っているわけではない。通俗本を読んで学者になる人間がいようといまいと、それを読んだことがきっかけで、もっと(もしかすると)重大で有益な効果があるのかもしれない。しかし、それを社会科学として計測する手立ては単純なものではないだろうし、『ソフィーの世界』を読んだ人が何人いるのであれ、その結果が今のこの日本の状況であると言いうるなら、やはりそれを読んだくらいで世の中が良くなったりしないと若者が断定したとしても、それを不当だと言う権利は僕ら大人にはないと思う。しょせん、結果がすべてなのだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook