Scribble at 2021-03-12 09:49:41 Last modified: 2021-03-12 09:56:37
しばしば「権力は必ず腐敗する」と言われる。19世紀イギリスの歴史家・政治家であった John Dalberg-Acton 卿が Mandell Creighton 大司教へ宛てた手紙の中に、上記のような文章がある。もともとは、人々が政治家や宗教家などの権力者に批判的過ぎるというクライトン大司教の考えに反対して、アクトン卿が述べている文脈での一節である。権威を手中にすると、それが間接的な影響力にすぎない場合でも、そこには批判を許さぬ雰囲気ができて神聖化され、権威が偉大になればなるほど、その傾向は悪化する。それを指して「権力は腐敗し、絶対的な権力は絶対に腐敗する」と評している。
しばしば、歴史家というものは(とりわけ日本でマスコミや評論家や物書き大学教授たちに称賛される歴史家たちに顕著だと思うが)、あからさまに反動的でなくとも、その状況においてはそうせざるをえなかったのであろうという〈推定無罪〉の原則で過去の権力者たちの事跡を理解し叙述しようとする。あからさまに言えば、良くも悪くも「大河ドラマ」として過去の権力者を実質的に免罪し、個人としての責任を問うよりも〈時代〉やら〈時の流れ〉やらといった巨大な観念に身を任せるか、あるいは逆に些細な日常生活の積み重ねで知らぬ間に悪行へ手を染めてしまったり避けがたいしがらみに飲み込まれるという、実は昆虫やロボットのような単純で抗いようがない因果関係の些末な系として権力者の生涯を位置づけてしまう。日本で人気がある歴史の著作家というものは、古代の軍記物の著者から司馬遼太郎や渡辺京二にいたるまで、たいていこれらのどちらかだ。(あーもちろん、コピペ野郎や自称元皇族なんて歴史家でもなんでもないので論外だ。)
それはそうと、ここで言う "power" とは教会や国家のものであるから、これを三権に分割してみても筋の通る話であると分かるし、それゆえ歴史家の責任と言われる、逆に歴史を理解することによって理解できるであろう、歴史を越えた堅固な道徳規範に拠って立つことの価値が強調されなくてはならないのだろう。日本で「歴史的」な理解と言えば、必ずと言っていいほどただの相対主義や当事者主義、あるいは浪花節的で人の非力さや運命の儚さを嘆くセンチメンタリズムのことだと思われがちだが、それこそ歴史的な経緯(日本の場合は唯物史観の歴史学というイデオロギー・ファーストな歴史学への反省や反感)で生じただけの偶然にすぎない。しかし、そういう子どもじみた反感や、学術的な正当化が不可能な単なる偶然を理由にしたくないというだけのことで、そうしたセンチメンタリズムを「日本的」だの「アジア的」だの「東洋的」だのと称する愚劣な風習が人文・社会科学に出来上がってしまい、家電産業をしのぐような「ガラパゴス化」がすすんで世界規模の業績をまったく上げられず、些末なエッセイやアジビラや小説みたいなものを書く人文・社会科学者だけが好評を博しているのが、この辺境国家の実態である。
三権の話に戻ると、行政は自分たちの思惑や保身を優先させる。これは官僚の現実を見れば明白だ。どれほど東大の学部を出た素人(海外の官僚は最低でも修士号くらいもっている)が青臭い理想を描いたり、博報堂と一緒に出来損ないの社会科学エッセイを出版しようと、結局は自分たちの立場を維持することが最大の目的であることに変わりはない。行政官が「行政は不要だし最低限でよい」などと言うわけがないのだ。そして、立法は自分たちの権限を縮小する法案を通すわけがなく、自分たちのやることを違法として糺すような法案を喜んで起案するわけがないのである。会社でも学校のクラブ活動でも、その組織のルールを発議する人間が、そのルールを厳格に適用すれば自らを追い出すことになるような水準での施行を前提にルールを求めたりすることはありえない。最後に司法は、自分たちの過去の判断を覆すような新しい判断は、それがどれほど正当であろうと簡単に認めたりしないし、もとより自分の考えた結論を無効にするような他人の判断を優先して採用する仕組みなど求めないだろう。これらは端的に言って事実であり、権力が腐敗するということは、足を踏み鳴らして強弁したり膨大な資料を持ち出して論証するようなことでもあるまい。その前提に立って、権力をどのように分散し牽制しコントロールするかが国の仕組みの要点というものであろう。